top of page

罪人を招くため

マタイによる福音書9章9-13節

9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週までの2週にわたって、「山上の説教」として束ねられる主イエスの御言葉集より聴いてまいりました。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」(マタイ7:24,25)。

流動する砂地の上に家を建てる者は、暴風雨にあえば押し流され、倒れ方も酷い。だからこそ、主イエスは、御自身の御言葉という揺るぎない岩を土台とするように招かれます。

では、岩を土台とする、御言葉に根差すとは、一体どのような生き方を指すのか。聖書を開く時、赦しを求める者には赦しがあり、癒しを求める者には癒しがあり、励ましを求める者には励ましがあります。そのように、求める想いに御言葉が応える時、初めて私たちは御言葉に生かされ、根差す者へと変えられるのです。言い換えれば、御言葉が私たちの内で生き始めるということでしょう。

「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。…中略…あなたがたはその実で彼らを見分ける」(7:18,20)。

聖書に記される御言葉は、2000年以上、多くの人々を支えてきました。主イエスの御言葉という実は、時代を超えて残り続けているのです。そして、御言葉はこの先も、生きる者たちへと伝えられていくことでしょう。私たちは、その実りをしっかりと見据えたいのです。本日も、私たちへと手渡される御言葉に、聴いてまいります。

さて、与えられた御言葉には、主イエスが徴税人マタイへと弟子となるように招かれた場面が記されています。

当時は、ローマ帝国が、イタリア半島からパレスチナに至るまで支配圏を伸ばしていました。ただ、その広範囲全てを掌握することが難しかったため、各地に監視者を配置することにとどめ、パレスチナ周辺の管理は、ヘロデ大王の3人の息子たちに任せていました。そして、ある程度の自由を保障することと引き替えに、彼らには上納金を納めさせていたのです。そのためのお金を民から回収するために、ユダヤ人の中から徴税人が雇われました。

ルカ福音書に、「ザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。」(ルカ19:2)とあるように、徴税人の中にも序列があったようです。定められた金額以上を集めれば、余剰を懐に入れることができるため、徴税人の頭は金持ちだったのでしょう。しかし、下っ端の回収者たちは、決して裕福ではなかったようです。多く集めようとも隠し通すことはできず、頭に見つかってしまえば吸い上げられてしまいます。そして、法外な金額の税を取られた民の怒りは、真っ先に最も近くにいる彼らにぶつけられることとなるのです。また、徴税人は、利子を取ってはならないとの律法に背くこと、外国人との関わりの中で、異邦人が負っているとされたけがれに触れるという理由で、宗教的な罪人とされていました。

マタイは、収税所に座っていたことからも分かるように、徴税人の中でも下っ端だったのでしょう。働く彼の前に、主イエスは立ち止まられたのです。

「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(マタイ9:9)。

人は生活する中で、あらゆるしがらみに捕らわれ、身動きが取れなくなっていきます。それは、責任という言葉で言い表せるでしょうか。仕事を捨てて即座に従うことは、簡単にはできない決断であることを私たちは知っています。

しかし、マタイはすぐさま立ち上がり、主イエスの御後に従っていました。人々から搾取しても自らの生活が潤わず、仕事以外では人々から避けられ、通り過ぎられたであろう日々。そのように、板挟みにあう彼を「人から避けられる者」から「人と共に歩む者」へと変える人生の転機を、主イエスの呼びかけがもたらしたのです。

「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った」(9:10,11)。

多くの場合、ファリサイ派の人々がこのように語るのは、律法を遵守する自らを「義人(正しい者)」と考えている時です。彼らは、徴税人や罪人を一括りにし、自らを清く保つために、宗教的にけがれた者と関わることを避けました。

当時の食事会は皆に公開されおり、偉い人物を呼び、見せびらかす意味も込められていました。一緒に食事をするとは、並ぶ人と同等に見られるということです。だからこそ、ファリサイ派の人々には、人々から噂される活動家イエスが、罪人と食卓を囲むことが理解できず、弟子たちに理由を聞いたのでしょう。

弟子たちも彼らと同意見だったのか、口をつぐむ中、主イエスは言われました。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(9:13)。

主イエスは、“いいじゃないですか。罪人も、私たち正しい者の仲間に入れてあげましょうよ”と、ファリサイ派の人々を納得させたかったのではありません。それでは、力ある支配層に自らの善行を誇らせ、力ない弱者は依然として社会の隅に追いやられたままとなります。主イエスが、あえて“わたしは罪人を招くために来た”と断言されたのは、勝手に人の善悪を決めつけ選別する社会の常識そのものを打ち崩すためであったことを覚えたいのです。

ヨブ記には、多くの苦難に遭うヨブの姿を見て、3人の友人が“おまえの信仰心がないからだ”と糾弾する批難する場面が記されています。しかし、後に神の怒りが3人に向けられた時、神は次のように言われました。「わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう」(42:8)と。家族や財産を失い、重い皮膚病でボロボロの、まさに神に見捨てられたかの状態のヨブの執り成しの祈りによって、友人たちへと神の赦しが与えられました。そして、3人の友人のために祈った時、ヨブ自身もまた神の救いを見たのです。

自らを正しいと自負する者が、世に降られた主イエスの招きに答える唯一の方法は、“罪人の輪に加わる”ということでしょう。そして、身を起こした罪人や社会的弱者とされる人々が、ヨブのように彼らをとりなして祈る時、初めて神の御心は果たされるのです。社会の在り方とは正反対の出来事が、ここに現わされます。

私たちは、そのような神の国の様子が、この地上において実現するように願いつつ、身を低くされそこで生きられた主イエスと共に立ちたいのです。

「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ3:18,19)。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

bottom of page