父と子と聖霊なる神
マタイによる福音書28章16-20節
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、聖霊降臨祭を迎えました。主イエスが天に帰られた後、弟子たちのもとへと“聖霊なる神が遣わされた出来事”を記念する日です。教会では、主イエスの復活から50日後に聖霊が遣わされたことを覚え、この日を「50番目」を意味する「ペンテコステ」(ギリシャ語)と呼びます。
使徒言行録2章は、この日に何が起こったのかを伝えています。
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:2-4)。
都エルサレムには周辺各地からの滞在者が居ましたが、轟音を聞いて“何事か”と、弟子たちのもとへと集まりました。この時、世に降られた聖霊と直結された弟子たちは、人々へと、“主イエスこそ皆が待ち望んできた救い主だ”と証しし始めたのだというのです。聖霊によって、弟子たちの言語が分かたれたのは、ユダヤ人だけではなく、遠くに住む者たちにも主イエスの御言葉が宣べ伝えられるようにするためでした。ペトロを筆頭に話し始めた弟子たちによって、この日、3000人が洗礼を受けたのです。
主イエスは、“聖霊のお働きがなければ、人は神について理解することはできない”と言われます。弟子たちが“主イエスこそ救い主だ”と証しすることが出来たのは、彼らに繋がられた聖霊の御業だということです。また、人々が弟子たちの言葉を受け入れ、洗礼を受けるに至ったのも、聖霊のお働きによることを知らされるのです。
聖霊降臨の出来事において、弟子たちを通して主イエスの御生涯と御言葉が伝えられたことにより、人々が共に歩む者へと変えられ、教会の歩みが始められました。それゆえ、私たちは“教会の誕生日”としてペンテコステを祝うのです。
“聖霊によって働きかけられて初めて、人は御言葉を理解することができる”ならば、私たちが神と出会い、教会に集うに至ったこともまた、聖霊の御業でありましょう。そして、主日礼拝の中で、私たちが御言葉の意味に気づかされる出来事とは、今もなお聖霊が働きかけてくださっている徴にほかなりません。信仰とは、人が作るものではなく、聖霊によって与えられる“賜物”であることを覚えたいのです。本日も、語られる御言葉に聴いてまいります。
さて、本日は「三位一体主日」です。キリスト教会では、神について「父と子と聖霊」と表現致します。
「父」とは、天地創造を成し遂げられた全能の神を指します。私たちが『旧約聖書』と呼ぶ書物には、神が御自身で働かれたり、預言者を用いて御言葉を伝えられるなど、人々の歴史へと関わられる御姿が記されています。
「子」は、イエス・キリストです。神でありながらも人となられ、苦しむ者の手を取って歩み、十字架の死と復活の御業を成し遂げられた方です。その御生涯の中では癒やしの御業を現わすだけではなく、聖書を誤解する人々へと神の御心の真の意味を告げられました。
「聖霊」は冒頭で申しました通り、“一人ひとりの上にとどまり、満たされる方”です。神に関する事柄や主イエスの御言葉を受け取らせるのも、人の内に信仰を起こすのも、人の望みにかかわらずあらゆる場所に派遣したり、様々な出来事や出会いを与えられるのも、聖霊の御業だと言われます。
父も、子も、聖霊も、すべて独りの神の三つの異なる御姿であるため、「三位一体の神」と呼ばれているのです。
創世記1章には、次のように記されています。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創1:1-3)。
ヨハネ福音書の著者は、主イエスを「言(ことば)」と表現しています。神、混沌を包む霊、「光あれ」との言葉。世界のはじまりの時点で、すでに父と子と聖霊が共に在る様子が描かれているのです。
私たちは、これまでの主日礼拝において、主イエスの昇天の後に聖霊が遣わされた出来事について聴いてまいりました。それゆえ、神の三つの御姿すべてについて語られたこの時、「三位一体主日」を記念するのです。
なぜ、神は三つの御姿によって人に関わられたのでしょうか。それは、聖書の語る人の罪に関係しています。
何度も紹介していますが、「罪(ハマルティア)」というギリシャ語は、「的外れ」を意味する単語です。すなわち、ルールを守らないことが罪だと言われているのではなく、神の御心から離れ、的外れに生きることが罪だと聖書は伝えているのです。
創世記3章には、最初の人間アダムとエバが、蛇にそそのかされ、神が食べてはならないと言われていた木の実を食べてしまった物語が記されています。実を食べたことで、二人は善悪を判断するようになり、裸であることを恥じ、神から身を隠しました。そして、最終的にエデンの園を追放されることとなったのです。“人が自らの価値観で善悪を定めるとき、神の御心から離れ始める”とは、興味深い内容です。
主イエスの時代に至ると、各会堂に聖書の巻物が置かれ、専門家を通して神の御言葉が、安息日毎に人々へと教えられるようになりました。けれども、ルールに従わない者は審かれ、神の恵みが一部の優れた者のみに与えられるものであるかのように教えられ、御言葉を手渡されようとも、人々は安心することが出来なかったのです。
真剣さや熱意が的外れな方向へと人を突き進ませる。そのような時代の中で、苦しむ者の呻きや祈りを聞き届けられたからこそ、神は救いの御子として世に降られたのです。癒やしの御業を現わすために。誤解を解き、真実を告げるために。死の力さえ及ばない御自身の御力を証明されるために、耐え難い痛みをも引き受けられ、人々の間に立たれました。どこか遠くではなく、体温が伝わる距離にまでその身を低められる神の御姿がここにあるのです。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18-20)。
主イエスは世を去られる直前に、弟子たちを御言葉を告げる使者として、人々のもとへ派遣されました。
しかし、神は弟子たちへと使命を与えられた後、身を隠されるのではなく、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、聖霊の御姿によって、一人ひとりの歩みに伴うことを約束されました。その通り、聖霊降臨の出来事以降、弟子たちと直接繋がり、御言葉の真の意味を教えられ、彼らの助け手として働かれたことを聖書は伝えています。手を伸ばしたら触れられる人の姿よりもさらに近くに、一人ひとりと直結する聖霊の御姿へと、神は御自身を変えられたのです。
一人ひとりの幸いを願い、御自身の在り方を変えられた神によって、今、私たちは包まれ、満たされる者とされています。私たちは決して正しく、清くあり続けることはできません。
しかし、この歩みや胸の内にある想いを全て御存知の上で、たった一度きりの主イエスの十字架の出来事によって、神は赦し、受け入れることを望まれるのです。父と子と聖霊という御姿には、私たちを大切にすると覚悟された神の御心が現わされます。だからこそ、的外れに進むほかない自らの欲が進ませる方向へと歩むのではなく、主の御言葉にこそ聴き従う者でありたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン