後に遣わされる方
ヨハネによる福音書14章15-21節
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週より、ヨハネ福音書13章-17章にかけて記される「最期の晩餐」の中で語られた御言葉を聴いています。続く18章の小見出しには『裏切られ、逮捕される』とありますから、この直後に、人々の企てにより、主イエスは十字架に続く苦難の道へと引き連れられていくことが分かります。そのため、弟子たちとの最期の食事の席で、主イエスは“今、どうしても伝えておかなければならない約束”を語られたのです。まさに、主イエスの遺言と言えましょう。
聖書は、後に“十字架にかけられた後、3日目に復活する”との受難予告の通り、主イエスが復活されたことを伝えています。この復活の出来事により、本来、死をもって償うべきほどの罪を背負う一人ひとりへと、主イエスの一度きりの犠牲により、永遠の赦しが与えられることとなりました。同時に、死の先に神と共に分かち合う命があることが証しされたのです。
けれども、十字架の死と復活という大きな御業を成し遂げられた主イエスには、更に果たさなければならない役割が残されていました。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。…中略…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:2,3)。
この御言葉より、主イエスのみが知っておられる“神の御許に続く道”があることを知らされます。道は出発点と終着点を繋ぐものであり、出発点がなければ道は無く、到着点が無ければ進むべき方向が分からずに迷います。神がどこにおられるのか分からない以上、その道を知っておられる主イエスに従わなければ、人は神の御許に到達することはできないのです。
主イエスは、“神の御許に住む場所を用意したら迎えに来る”と約束されました。正しく生きたからでも、他者よりも優れているからでもなく、罪あるこの身をも赦した上で、受け入れる覚悟をされた主イエスのゆえに、人は神の御許に迎えられることとなるのです。唯一、人に残された選択肢とは、この主の約束を“信じて待つこと”でありましょう。
「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(14:14)。
主イエスは、弟子たちへと“父なる神の御許へと私自身が行くのだから心配せずに信じるように”と言われました。いずれ御姿が見えず、そのぬくもりを体感することができなくなる時が来ようとも、主イエスと弟子たちとの関係は決して切れることはない。何よりも、父なる神と弟子たちとの間を、主イエス御自身が繋がれるからこそ、一人ひとりの祈りの声は、父なる神によって必ず聞き届けられるのだと約束されたのです。最期の晩餐の際の弟子たちには、この御言葉の意味が分からなくとも、十字架の死と復活の出来事を目の当たりにし、天に昇られる復活の主を見送った後の彼らにとって、この上ない安心となったに違いありません。
しかしながら、弟子たちが、復活の主を天に見送り“これまでに語られた約束は全て果たされる”という確信を持とうとも、また、“来るべき日に迎えに来る”という「主の再臨」が約束されようとも、人の心は揺らぎやすいものです。後に、弟子たちは敵対者から迫害され、仲間の死を目の当たりにすることとなります。信じて待ち続ける思いが打ち砕かれるほどの苦難の中で、彼らは何故御言葉を伝えるために歩み続けることができたのでしょうか。
続く本日の御言葉において、主イエスの語られた約束が深く関わっているのです。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14:16,17)
復活の出来事の後40日目に、主イエスは父なる神の御許に帰られます。その後、神が不在である世界を弟子たちは生きていかなければならなかったのかと言いますと、そうではないのです。
キリスト教会では、神について「父と子と聖霊」と表現いたしますが、主イエスが天に昇られた後に遣わされると言われる「別の弁護者」こそ、「聖霊なる神」この方なのです。
ルーテル教会では、福音書を中心として説教が語られますから、「父と子と聖霊」の中でも、「子」なる主イエスを最も身近に感じる方も多いことでしょう。一方、聖霊なる神は御姿が見えず、その働きについても明確に言い表すことが難しいのです。けれども、神は父と子と聖霊と呼ばれるお姿で私たちと、私たちの歴史に関わってこられました。創造主の働きだけが神ではなく、救世主である主イエスも、護り導く聖霊も神であることを改めて思い起こしたいのです。
主イエスは、御自身が神の御許に帰られた際には、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われます。主イエスの願い、すなわち、「祈り」によって、聖霊なる神は世に派遣されるのです。
ヨハネ16章で、主イエスは次のようにも語られます。
「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。……その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:7,13)
主イエスが去られた後に世に遣わされる聖霊なる神によって、弟子たちは真理へと導かれると言われていますが、この真理こそ「神の御心」にほかなりません。聖霊なる神の御業によって、これまで靄がかかっていた神の御心が、はっきりと知らされることとなる。すなわち、聖書を通して与えられる御言葉に私たちがハッとさせられ、時に癒され、力づけられる出来事とは、すべて聖霊なる神が働かれている徴であると、主イエスは証しされるのです。そのように、私たちの信仰とは、“主イエスによって聖霊なる神を知らされるところから始まるものである”ということに気づかされます。
「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(14:20)。
私たちの内に起こされた信仰により、聖霊なる神が外から、私たちの内面へと働きかけられたことを知らされます。では、私たちの内なる神とは何を指すのでしょうか。
使徒パウロは次のように語ります。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:3-5)。
私たちの信仰や祈りの熱意は内なる神の代わりになることはありません。私たちの内へと吹き込まれた霊と御言葉が、内なる神として息づいているのです。そして、この霊への信頼こそが、忍耐と希望とを起こすことを覚えたいのです。
「主によって聖霊を知らされる」ことにより、私たちの信仰は始まります。しかし、信仰の到着点は、「聖霊に知られている」ことに気づかされ、それを確信し、与えられた命を生きることでありましょう。私たちには神の息が吹き込まれていますが、それ以上に、“私たちがキリストの内にいることによって、神の内にもある”との主の約束を大切に覚えたいのです。
「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(14:16)。
永遠とは、神が始められ、終わらせるまでの期間でありましょう。たとえ世が終わろうとも、主は私たちと共におられるのです。この確信を得た弟子たちに連なり、主に伴われ続ける平安をもって歩み出したいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン