再び来られる約束
ヨハネによる福音書14章1-14節
◆イエスは父に至る道 14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
4月16日にイースターを祝った私たちは、現在、主イエスの復活を覚える期間を過ごしています。
死の先について、人は何も知りません。誰も経験がなく、その先から戻ってきた者もいないからです。先が見えないとは恐ろしいものです。それゆえ、この世とあの世の間にある越えがたい断絶を忘れ、生きる世界のみを考えるのです。
しかし、聖書は、十字架にかけられたことによって死なれた主イエスが、三日目に復活されたこと。そして、命を形造られる神の御前では、死さえも無力であることを告げるのです。
これまでの主日礼拝の御言葉で聴いてきた通り、復活された後、主イエスは幾度も弟子たちの前に御姿を現わされました。死がすべての終わりと考え、亡くなった指導者イエスと再会することを諦めていた弟子たちの驚きと、後に沸き上がった喜びは計り知れません。復活の主と出会った彼らは、人々から捕らえられることを恐れて身を隠すのではなく、主の御後に従って、語られた御言葉を告げる者へと変えられることとなったのです。
十字架の死と復活によって、すべての人の罪を赦し、神と人との関係を紡がれた主イエスは、神の御許に戻るまでに幾度も弟子たちのもとへ訪れられました。共に旅をした弟子たちが、御自身との別れの後にも、挫けることなく歩み続けることができるように、復活の主イエスは力づけ、励まそうとされたのでしょう。
教会の暦では、復活から40日目に主イエスが神の御許に帰られたことを覚えて、40日目に最も近い日曜日に「昇天主日」の礼拝を行います。すなわち、再会を果たしたものの、それから2ヶ月が経たない内に、弟子たちは再び復活の主イエスと別れなければならなかったのです。弟子たちにとって、主イエスと共に旅をした3年間よりも、出会う以前の歩みや、別れの後に歩んだ時間の方が長かったことでしょう。その御姿が見えずとも歩み続けることができたのは、これまでに語られた御言葉と約束が彼らの内に確かに息づいていたからに違いありません。
弟子たちを押し出す原動力となった御言葉は、主イエスが歩まれた頃から2000年以上も後の時代を生きる私たちをも支え、力づけます。復活の出来事を覚えつつ、改めて主イエスの語られた御言葉より聴いてまいります。
本日の御言葉は、ヨハネ福音書の13章より始まる「最期の晩餐」において語られたものです。この食事を終えた夜、主イエスは迫害者たちから捕らえられ、十字架刑に至る裁判へと引き連れられていくこととなります。この時にはまだ、十字架の死と復活の出来事が起こっておりませんので、弟子たちは御言葉の意味を理解できませんが、それでも語ることをやめられなかった主イエスの御姿から、緊迫した状況下にあったことが伝わってまいります。弟子たちとの別れを前に、どうしても伝えておかなければならない約束があった。それは、主イエスの遺言と言えましょう。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(14:1-4)。
直前の13章には、弟子の内、一行の会計係をしていたイスカリオテのユダが裏切りを曝かれたことで出て行った出来事。そして、最初に弟子として招かれたペトロへと、これから後、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)と、主イエスが宣言された出来事が記されています。都エルサレムに近づき、一丸となって進まなければならない時に分裂が語られたならば、不安になるに違いありません。
これから確実に苦難は押し寄せ、別れの時は避けがたく訪れます。すべてを御存知の上で、主イエスはこの場限りの慰めを語られるのではなく、御自身との別れの後にも進まねばならない弟子たちへと、一つの約束を残されたのです。それは、“主イエス御自身が、神の御許に住まいを用意された後に迎えに来られる”と語られた通り、“天に帰られた主イエスとの再会(再臨)”と、“迎えられた者が、いずれ神の国に住む”という約束でした。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(14:2)とは、それを見たことがある方のみが語ることのできる言葉です。そして、父なる神の御許から遣わされ、世に降られた方だからこそ、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(14:3)と、父の御許とこの世とを行き来し得るのでしょう。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」(14:6,7)。
死の先と同様に、人には神がどこにおられるのかも分かりません。すなわち、父なる神の御心や御力を、御許へ続く道を御存知である主イエスに、この身を委ねる以外には、人はそこに到達する術を持たないのです。言い換えれば、主イエスの御姿にのみ神が映し出され、語られる御言葉を通してのみ、私たちは神の御心を知ることができるのだということでしょう。
神と人を繋ぐ道となられた主イエスは、御言葉によって神の御心の真理を告げ、十字架の死と復活によって死を打ち崩されたことにより、その先にある神と一つの永遠の命を指し示されました。御言葉は聖書として書き記され、復活が“繰り返される必要のない、たった一度きりの出来事”だと言われます。それゆえ、主イエスの御生涯を辿り、その御言葉に聴く時、時代を超えて、信仰者は本来知り得ない父なる神との出会いを果たすのです。
「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(14:12-14)。
復活から40日目に、主イエスは父なる神の御許へと帰られることとなります。けれども、この後、その御姿を地上において拝見することは叶わなくとも、共に歩まれた主イエスが父なる神の御許に向かわれ、祈りを聞き届けてくださるのだというのです。旅に伴った弟子たちにとって、これ以上にない頼もしい約束であったに違いありません。生涯を終えるまで主の御言葉を語り伝えた彼らの姿から、弟子たちの内に息づいた主の御言葉と約束の力強さを知らされます。
私たちは、祈りの最後に「主の御名によって」という言葉を添えます。それは、主イエスが今も生きておられ、私たちの祈りを聞き届けてくださることを信じているからです。
「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(14:3)。
生きて働かれる主は、私たちを迎えに来ると約束してくださいました。生きることは非常に大変であり、年を重ねるごとに不自由は増えてまいります。
しかし、時を重ねるということは、私たちの人生の中でも、今この時が、最も主に近い場所に在るということでありましょう。御言葉に信頼して残された時を生き抜いた弟子たちに連なり、私たちも目覚めつつ、与えられた時の中で再び来られる主を待ち望みたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン