良い羊飼い
ヨハネによる福音書10章1-16節
◆「羊の囲い」のたとえ 10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 10:2 門から入る者が羊飼いである。 10:3 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 10:4 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 10:5 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 10:6 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。 ◆イエスは良い羊飼い 10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 10:8 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 10:9 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
3月26日の礼拝において、仮庵祭の後、都エルサレムの南端に位置する「シロアムの池」の近くで、主イエスが盲人を癒された出来事について、聖書より聴きました(ヨハネ9:1-)。「仮庵祭」は、9月-10月頃に行われるユダヤ人の三大祭りの一つであり、かつて“イスラエル民族が預言者モーセに導かれた荒野での40年間に、テント(仮庵)で生活したこと”を記念する日です。
ヨハネ福音書の7章には、仮庵祭の前に、既に命を狙われていた主イエスが、身を隠されつつもエルサレムに向かわれたことが記されています。そして、本日の10章には、「エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」(10:22)とあります。「神殿奉献記念祭(光の祭り)」は、11-12月頃に行われ、紀元前167年に、ギリシャ支配から勝利を勝ち取った戦いを記念する日です。
すなわち、7-10章にかけて、9月終わりの仮庵祭から12月の初めの神殿奉献記念祭までの数か月を、主イエスがエルサレム付近で活動されたとして、ヨハネ福音書の著者は描いているのです。
本日は、都エルサレムにおいて、周囲を取り巻く群衆やファリサイ派の人々へと、主イエスが語られた御言葉より聴いてまいります。
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」(10:1-4)。
羊は、頭を動かさずに背後を見ることができるほど広い視野を持つものの、奥行きを捉えるのが苦手であるため、影やくぼみなどを恐れて動けなくなることがあります。その代わりとしてか、耳が良いため素早く危険を察知することはできるのだそうです。
しかしながら、鋭い牙や爪はありませんから、外敵に襲われた場合には、群れて体を大きく見せたり、角を持つ者が体当たりするなど、ささやかな抵抗しかできません。羊たちが生きるためには、常に身を守ってくれる先導者(動物でも可)を求め続けなければならないのです。だからこそ、外敵から守り、餌場へと導いてくれる羊飼いは、羊にとっての頼みの綱であるため、しっかりとその声を聴き分けることができるのでしょう。
旅をし、寄り添って眠る日々の中で、羊飼いの内には羊一匹いっぴきに対する愛着が生まれます。私たちから見れば、すべての羊が同じ顔をしているように見えますが、それぞれの特徴を知っている羊飼いは、名前を間違えることなく呼ぶことができるのだそうです。羊たちは羊飼いの声を知り、羊飼いもまた自分の羊を知っている。ここに、羊飼いと羊の関係性が現れるのです。
古くからパレスチナ地方では羊の飼育が行われていたため、聖書には羊についての記述が多くあります。毛を剃って売ることに加え、乳を搾り、それを加工したり、肉を食べることもできるため、収入源としても食料としても重宝されたのでしょう。また、ユダヤ人の祖先であるイスラエル民族は、神から与えられた掟に従い、いけにえの動物として羊も献げました。遊牧民だった彼らが土地を得て農耕民族に変わろうとも儀式が続けられましたから、羊が民の生活や宗教と結びつく家畜だったことが分かります。
ユダヤ人にとって馴染み深い羊飼いと羊の関係性を持ち出し、主イエスは神の御心を教えられます。
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。…中略…わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10:9,10)
イースター(復活祭)をお祝いした私たちには、主イエスが御自身に与えられた役目について語っておられることが分かります。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と語られるように、神の御許から来られ、再び帰って行かれる主イエスお独りのみが、神の御許に至る道を知っておられます。それゆえ、門以外から入って中の羊を奪い去る盗人としてではなく、飼い主の呼び声に従って門を出入りする羊のように、御自身の語られる御言葉へと聴く者となるように、主イエスは招かれるのです。
しかし、この時にはまだ主イエスは捕らえられても、十字架にかけられてもいません。主イエスを一人の聖書の教師と考え、復活するなど想像もしていなかった人々には、主イエスが何を言われているのか分からなかったに違いありません。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」(10:6)とは、そのためです。
「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。……彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」(10:11-13)。
羊飼いには、耕す土地を持たないために、雇われて羊飼いとして働く者がいたようです。羊を餌場まで連れていく旅は過酷です。火を焚き、杖を持っていようとも、いつ野獣や盗賊に襲われるか分かりません。その時、雇われ羊飼いは、自らの命を第一に考えて逃げ去ることも多かったようです。
しかし、自らの羊を持つ羊飼いは、羊が奪われたり、殺されてしまえば、明日の食べ物を得ることができなくなります。何よりも、名前を呼ぶほど愛着をもって接しているならば、見て見ぬふりをして逃げ出すことなどできないのでしょう。そのような羊飼いは、命がけで羊たちを守るのだというのです。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」(10:14,15)。
主イエスは、御自身を一匹いっぴきの羊を大切にし、脅威が迫ろうとも、命懸けで羊を守るような「良い羊飼い」だと言われました。主イエスが羊飼いであるならば、羊とは主イエスと出会い、その御後に従う者にほかなりません。
聖書を通して、すでに主イエスの御言葉が、私たちに手渡されています。主日ごとに語り掛けられる主イエスの御言葉こそ、私たちを招く声でありましょう。この御言葉を私たちへの招きの声として、しっかりと受け取る時、私たちは主イエスの羊として囲いの中へ、すなわち、神の国へと導き入れられるのです。私たちが主を知るよりも先に、主は私たちを知り、名前を呼んでくださる方です。私たちが主を知ったその時から、羊飼いと羊のように、主と私たちとの繋がりが明らかにされることを覚えたいのです。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(10:16)。
主が十字架にかけられた後、弟子たちは部屋の戸に鍵をかけ、人々を恐れて閉じこもりましたが、復活の主イエスとの再会を通して、扉を開けて歩み出しました。それは、復活の主イエスの門をくぐり、主と共に働く者へと変えられたということでありましょう。
教会に集い、主の囲いの中に招かれた私たちは、この教会から歩み出し、主と共に神の御心を現わす者となるように招かれています。教会の扉とは、すなわち、入る者にとっては主の囲いの入口であり、出る者にとっても社会に奉仕する門の入口です。主の御言葉を携え、今、私たちは羊飼いとして与えられている日常へと派遣されるのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン