信じることへの招き
ヨハネによる福音書20章24-29節
◆イエスとトマス 20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、復活の主イエスが、初めて弟子たちの前に御姿を現された際の出来事について、聖書より聴きました。
主イエスが十字架にかけられて死に、葬られた後、逃げていた弟子たちは皆で集まり、部屋の戸に鍵をかけて身を隠しました。都エルサレムに居た人々によって“おまえはイエスの弟子だろう”と告発された場合、捕らえられ、どのような仕打ちを受けるか分かりません。そのため、ほとぼりが冷め、巡礼者が各々の村に帰るまで、そして、弟子たち自身が今後の生活の計画を立てるまで、どうにかやり過ごそうと考えたのでしょう。
彼らは、主イエスの告げられた“復活する”との約束を忘れ、遺体が消えてしまった空の墓を目撃しようとも、この出来事が何を意味するかを考えませんでした。“復活の主と出会った”と証言する者の言葉をもってしても、心を閉ざしていた彼らを変えることはできなかったようです。そのように鍵をかけた部屋にこもる弟子たちの真ん中に、主イエスは来られました。そして、彼らにとって馴染み深い挨拶の言葉を語り、復活された御自身の御姿を示されたのです。
永遠の別れを覚悟した指導者と再会し、手と脇腹の傷跡をその目で見ることを通して、弟子たちは主イエスの復活を信じるに至りました。同時に、2度にわたって「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19,21)と語られることにより、裏切ったはずの彼ら自身の平和を願い続けておられる、主イエスの御心を知らされたのです。
本日与えられた御言葉は、これに続く出来事として記されています。
「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない』」(20:24,25)。
3年間の宣教の旅の中で、主イエスに従った群衆の中でも、最も近くに居たのが12人の弟子でした。最後の晩餐の最中に食卓を離れ、銀貨と引き換えに主イエスを売り渡したイスカリオテのユダは、十字架の出来事を目の当たりにした時、自らの愚かさを悔やみ、銀貨を投げ返して命を絶ちました。鍵をかけた部屋に集っていたのは、彼を除いた11人の弟子たちということになります。
しかしながら、最初に復活の主イエスが弟子たちへと御姿を現された時、「ディディモ(双子)と呼ばれるトマス」だけが、その場に居なかったのです。皆が身を隠していた部屋に戻ってきてみると、他の10人は、復活の主イエスとの再会を喜びつつ、その御様子や語られた御言葉について語り合っている。問うてみると、復活の主イエスと再会したのだというのです。
4月2日の主日礼拝において、マルタとマリアの兄弟ラザロが病死した際の出来事について聖書より聴きました(11:18-53)。彼らの住むベタニアとは、エルサレムに近い距離にある村です。既に、主イエスは宗教指導者たちから命を狙われていましたから、危険を覚悟してベタニアに向かなければなりませんでした。この時、「仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」(11:16)のが、トマスなのです。この言葉から、命がけで主イエスに従おうとする彼の熱意が伝わってまいります。
そのようなトマスだからこそ、復活自体が信じ難い事柄であることに加え、自分を除く他の弟子たちの前にだけ、復活の主が御姿を現わされたと証言されようとも、受け入れることができなかったのでしょう。また、もし、主イエスが復活されていたとしても、固い決意さえも果たせずに十字架の御前から逃げ去った負い目から、主イエスと再会することへの恐ろしさも感じていたに違いありません。
「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい』」(20:26,27)。
前回集まっていた日を数えて8日後とは、1週間後を指します。主イエスが復活されたのは日曜日でしたから、彼らは再び日曜日に集まり、礼拝していたのでしょうか。トマスを除く10人の弟子たちは復活の主イエスとの再会を喜んだものの、やはり全ての戸に鍵をかけ、周囲の人々を警戒していたことが分かります。
すると、1週間前と同じように、鍵をかけたはずの部屋の中に主イエスが来られ、彼らの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言われたのだというのです。先週も申しましたが、ユダヤ人の挨拶の起源は、ヘブライ語の「シャローム」です。朝昼晩と別れ際にも用いることのできる挨拶であり、出会った者の平和を願う想いが込められた言葉でした。
主イエスは、御自身を裏切り逃げ去った弟子たちを批難するのではなく、彼らにとって馴染み深い「平和を願う挨拶」をもって、真ん中に立たれました。そして、たった一人再会できず、疑いの深みから抜け出せないトマスへと、“その目で見、傷跡に指を入れ、確かめるように”と招かれたのです。
傷跡へと指を入れるとは、その痛みを再度味わわなければならないということです。拷問で知られるように、痛みは固い決意さえ揺るがすほどの恐怖を植え付けます。人は体験することで成長しますが、痛みの蓄積は人を臆病にします。
しかし、形容しがたい痛みをすべて引き受けられた上で、信じることのできないトマスのために、主イエスは、再び痛みを引き受ける覚悟を示されたのです。
「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである』」(20:28,29)。
全てを捨て、その命さえ捧げる覚悟で従った主イエスを、共に歩んだ弟子たちを、そして、固い決意さえ果たせなかった自分自身を疑いつつ過ごす日々とは、トマスにとっていかに辛く、耐え難いものであったことでしょうか。この世界のどこにも、神の御許にさえ居場所がなく、心を頑なにする以外に正気を保つ方法は見当たらなかったに違いありません。
しかし、そのような胸の内さえすべて御存じの上で、主イエスは痛みが伴おうともトマスの平和を願い、受け入れ、御自身の傷跡を差し出されました。口から出た「わたしの主、わたしの神よ」との呼びかけから、頑なな心が溶かされ、もはや傷跡に指を差し入れなくとも、彼が信じる者へと変えられたことを知らされます。
主イエスの語られた「幸い」には、ギリシャ語の「マカリオス」が使われていますが、これは幸せに満たされる、至福など、最上の幸せを意味する単語です。それゆえ、「見ないのに信じる人は、幸いである」とは、“信じる時、初めて与ることとなる最上の安心と癒しがある”という約束であり、疑う苦しさを手放す道への招きでありましょう。
科学が発展し、人口も情報も飽和する現代社会に生きる私たちは、信用できるものを選び取ることで身を守る術を学んでまいります。目に見えず、証明できないものは、疑われる時代です。
しかし、人に必要不可欠な愛情や優しさ、ぬくもりや安心などは、目に見えません。そして、疑い疑われることの苦しさを知る私たちは、同時に、目に見えずとも神に伴われる安心と心強さを知っています。
疑うトマスが信じる者へと変えられたように、主の力強い御手によれば、いかに荒れた心であろうとも耕され、豊かにされます。この上ない幸いへと招く主の御言葉に、私たちも聴いていきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン