閉ざされた扉
ヨハネによる福音書20章19-23節
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、イースター(復活祭)を迎えた私たちは、ヨハネ福音書が伝える主イエスの復活の出来事について聴きました。
週の初めの朝早く、マグダラのマリアが墓(洞穴)に向かうと、入り口を塞ぐ石が取り去られていました。状況を伝えられた弟子たちが墓の中を確認したところ、納めたはずの亡くなられた主イエスの身体は見当たらず、身体と顔を覆っていた布のみが残されていたのだというのです。
「復活」を既に告げられている私たちからすれば、墓の入り口の石が取り去られた出来事とは、神が生きる者の世界と死んだ者の世界を隔てる壁を打ち崩された事の徴に他なりません。そして、十字架にかかられて死に、復活された主イエスの御姿を通して、人の歩みが死で終わるものではなく、命の創り主である神によって、死の先においても生かされていくのだと知らされるのです。
しかし、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」(ヨハネ20:9)とあるように、空っぽの墓を目撃しようとも、弟子たちは主イエスが語られた復活を信じられないまま、自分たちの家に帰って行きました。
これに続く御言葉には、マグダラのマリアが復活の主イエスと出会い、それを弟子たちに伝えた出来事が語られています。十字架にかけられる前に、語られていた「復活する」という主イエスの御言葉。目撃した空っぽの墓。マグダラのマリアの証言など、イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちへと、主イエスの復活を示すこれらのものが手渡されていました。では、彼らが主イエスの復活を信じたのかと申しますと、そうではないのです。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20:19)。
主イエスが十字架にかけられたのは、ユダヤ人の大切にする三大祭りの一つ、過越祭と除酵祭の最中でした。弟子たちは、主イエスの十字架の御前から逃げ去りましたが、そう遠くへ行ってはいなかったようです。エルサレム入城の際、子ろばに乗って進まれる主イエスを盛大に迎えた様子が、多くの巡礼者に目撃されていましたから、彼らが町中を歩けば“主イエスの弟子だ”と告発されることは避けられません。そうなれば、主イエスと同様に罪に問われ、命の保証さえないのです。それゆえ、彼らは皆で集まり、家の戸に鍵をかけて息を潜めていたのでしょう。
呼びかけに従って全てを捨てたものの、指導者を失い、望む未来が台無しになってしまった以上、弟子たちにはどうすることも出来ず、悩みつつその場に留まることしかできない。まさに、石によって入り口が塞がれた墓の中のように、固く閉じられた部屋の中には、希望の光が入る隙間はありませんでした。
そのように、主イエスとの死別によって深く悲しみ、固い誓いさえ守れずに逃げ去った自らの弱さに押しつぶされそうな弟子たちの真ん中へと、復活の主イエスは来られたのです。
「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』
と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」(20:19,20)。
突然現れられた復活の主イエスは、開口一番、彼らへと「あなたがたに平和があるように」と言われました。
ユダヤ人の挨拶の起源を辿ると、ヘブライ語の「シャローム」という言葉に行き着きます。この「シャローム」こそ、「平和があるように」という意味を持つ言葉です。朝昼晩の全ての挨拶を兼ね、別れ際にも用いることができる言葉なのだそうです。
日本語の挨拶も、元を辿ると面白いものです。「おはよう」は、「お早い時間に、お疲れ様です」。「こんにちは」は、「今日は、ご調子はいかがですか」。「こんばんは」は、「今晩は、寒いですね。」という具合に、会話の冒頭の言葉が用いられています。普段は気に留めずとも、この一言には出会った人の体調を気遣ったり、安全を願う気持ちが込められていることを知らされます。
復活されてから初めて会う弟子たちに対して、主イエスは、それまでにしてきたように、「シャローム」と挨拶されました。聞き流すならば、それはただの挨拶に違いありませんが、そこに、挨拶だけには留まらない復活の主イエスの想いが込められていることに気づかされるのです。
傷あとを見て、御自身の復活を喜んだ弟子たちへと、主イエスは続けて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(20:21)、と。同じ相手に、2度挨拶をすることはありませんから、主イエスは、弟子たちがただの挨拶として聞き流すことのないように、祝福の御言葉を繰り返されたのでしょう。
平和とは、辞書には「争いや心配事もなく穏やかである・こと(さま)。」とあります。国家間や社会、家庭や友人を含む対人関係、個人の心の中など、平和であってほしいものは多くあります。では、主イエスが弟子たちのために願われる平和とは一体何でしょうか。
最期の晩餐の中で、主イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(14:27)と言われました。人がそれぞれに行動しなければ実現できない平和が「世の平和」だとするならば、ここで語られている「わたしの平和」とは、人の手によらない、主イエスお独りのみが与えることのできる平和の事でしょう。
使徒パウロの手紙には、次のように記されています。
「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロ1:20)。
主イエスの十字架の出来事によって、神は人と和解する道を選ばれたのだと言うのです。すなわち、主イエスは何よりも、全てを形造られる神と、弟子たちとの間に平和があるようにと願われた。そして、その上で、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と、戸に鍵をかけて閉じこもる彼らを励まし、送りだそうとされたことを知らされるのです。
「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」(ヨハネ20:22,23)。
最も近くに居た弟子たちでさえ、その目で傷あとを見るまでは、主イエスが幾度も語られていた復活を信じることができませんでした。そうであるならば、聖書を通して神の赦しが語られようとも、その御言葉を受け取れない者が居るのは当然のことです。主イエスの死と復活によって永遠の赦しが約束された今、この福音(良い知らせ)を告げる者として戸を開いて歩み出すように、弟子たちは招かれ、遣わされていくのです。
聖書を通して、主イエスの復活と神の約束を知らされた私たちもまた、弟子たちに続く者として、手渡された御言葉を伝える役割が与えられています。完全だからではなく、痛みを負い、弱さに落ち込み、この世の荒波にのまれる苦しさを知るからこそ、神と私たちの間にある平和が如何に貴いものであるのかを身にしみて感じます。
洗礼を通して聖霊を受けた私たちは、自らの内に閉じこもるのではなく、戸を開け放ちたい。思いを新たにされ、主と共にある一歩を踏み出す者でありたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン