主の涙
- jelcnogata
- Apr 2, 2017
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ヨハネによる福音書11章17-53節
◆イエスは復活と命 11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 ◆イエス、涙を流す 11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 11:35 イエスは涙を流された。 11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 ◆イエス、ラザロを生き返らせる 11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 ◆イエスを殺す計画 11:45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。 11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。 11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。 11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」 11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。 11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 11:53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日の御言葉には、「ラザロ」という人物が病によって死を迎えたことで、同じベタニアに住む人々が嘆き悲しむ姿が記されています。
直前の11章の冒頭には次のようにあります。
「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。……イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(ヨハネ11:1-3,5)。
主イエスは、ベタニアという村へと幾度も足を運ばれましたが、それは彼ら一家を大切に想い、深く関わっておられたからです。そして、マルタとマリアも、そのような主イエスを信頼し、“この人ならば何とかしてくださる”と思っていたからこそ、兄弟ラザロが病によって、手の施しようの無い状態にあることを伝えたのでしょう。
しかし、主イエスは、彼女たちの“ラザロが危険な容態である”との知らせを受け取りつつも、すぐには出発されず、更に二日間、同じ場所に留まられました。そして、ラザロが確実に死を迎えたであろうその時、初めて弟子たちを連れ、ベタニアへと出かけられたのだというのです。
「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。……マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」(11:17,19,20)。
マルタとマリア姉妹については、ルカ福音書に記される物語によって、教会の中でよく知られています。その内容は次の通りです。
主イエス一行が彼女たちの家を訪れた時、マリアは足もとに座って話を聴こうとしましたが、もてなす準備をしなければならないマルタは、主イエスへと“マリアにも働くように言ってください”と訴えました。その時、主イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(ルカ10:41,42)と、十字架にかけられるまでの限りある機会の中で、御言葉を受け取りたいと願うマリアを妨げないように諭された、というものです。この物語のイメージが強く、マリアは信仰深い者、マルタは世の雑務に追われる厳しい人という印象がもたれることがあります。
けれども、本日の御言葉においては、ラザロの死から4日経った時、ベタニアへと訪れられた主イエスを、真っ先に迎えに出たのはマルタでした。彼女は、これまでに御言葉を聴き、驚くべき御業を行われる様子も目撃し、主イエスの御力を承知しつつも、癒やしが間に合わず、避けられなかった兄弟との別れの悲しさを語っています。それでもなお、続けて「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と語った言葉に、マルタの主イエスに対する信頼を見ることができます。
到着の知らせを受け、主イエスの御許に向かって足もとに伏したマリアも、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(11:32)と、姉マルタと同じ言葉によって、兄弟の死と主イエスの遅い訪れを悔やみました。マルタとマリア姉妹、そして、周囲にいた人々の「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(11:37)との言葉から、その場にいた者たちの悲しみの大きさと、“人を癒やすことは出来ようとも、神の御許からこられた主イエスであろうとも、死の前では為す術がないのだ”との考えをもっていたことを知らされるのです。
「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流された」(11:33-35)。
当時は、愛する者の死を悼み、弔うために、大声で泣く習慣がありました。泣くだけでなく、胸を打ち叩く、灰を被る、衣服を引き裂く、髪の毛を剃るなど、身体全体で悲しみが表現されたようです。また。それを職業とする者もいました。
主イエスは、そのように太刀打ちできない死の前で、せめてもと、大げさに悲しみを表現するほかない者たちの姿をご覧になり、「憤りを覚え」られ、「涙を流された」と、記されています。
しかし、“この後、主イエスの御業によってラザロが再び生きる者とされた”と、聖書は告げているのです。神によって遣わされた主イエスは、御自身に与えられた御力によって、愛するラザロに命を与えることが出来ることが分かっておられたはずです。それでは何故、ここで涙を流されたのでしょうか。それは、「死」が、人々を悲しみの底へと引きずり込み、神へと信頼する想いを削ぎ落とし、希望をかき消すほどの力を振るっていたからであると受け取りたいのです。
命をお与えになるのは誰か。日々の糧を与え、この瞬間も人を生かし活かしておられるのはどなたか。それは、一人ひとりを大切に形づくられた神にほかなりません。そうであるにも関わらず、主イエスを“神の御許から遣わされた方だ”と信じる者たちを含め、神でさえも死を前にしては為す術がないと言うかのように、嘆き続けているのです。愛する者たちを神から引き離し、これほどまでに苦しめる死の力は、赦せないものであったに違いありません。そして、死によって苦しめられる者たちの深い悲しみを見て、涙を流されたのではないでしょうか。
「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた」(11:38-43)。
死後4日とは、確実に死んだことの証明ですが、主イエスが大声で呼びかけられたとき、ラザロに再び命が与えられ、生きる者となったのだというのです。
私たちは、愛する者との別れを経験いたします。関わった時間に手は抜いていなくとも、“もう少し大切にできたのではないか。大切だと、しっかり伝えればよかった。”との想いが沸き上がるのです。それは、もっと一緒に居たいという願いの裏返しでもありましょう。死者を生き返らせることができるならば、“主よ、今この場に来てください”と、願わずにはいられません。
しかし、主イエスの御業によってよみがえったラザロは、現代に生きてはおりません。彼もまた、再び死を迎えたということです。すなわち、私たちへと伝えられるのは、“この世で死なないこと、生き返ることの素晴らしさ”などではなく、“神によって死の力は打ち砕かれた”ということです。同時に、主イエスの十字架と復活によって開かれた道を通り、私たちは神の御許にある命へと迎えられるという福音を受け取っているのです。
死を経験したことのない私たちにとって、死は未知なるものであり恐ろしさを感じずにはいられません。だからこそ、その先を知っておられ、死をも打ち砕かれる主の御言葉に聴きたいのです。主は、死の先を指し示されます。今、愛する者に手渡せなかった言葉や想いがあるならば、死の先における再会の時を待ち望みたい。死を迎えるこの身と、愛する者を委ねることが出来る方がおられることを覚え、与えられたこの人生という神の御許に続く道を歩みたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
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