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何が望みか

  • jelcnogata
  • Mar 12, 2017
  • 8 min read

マタイによる福音書20章17-28節

◆イエス、三度死と復活を予告する 20:17 イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。 20:18 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、 20:19 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」 ◆ヤコブとヨハネの母の願い 20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、 20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。 20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

本日の御言葉には、主イエスが弟子たちへと「3度目の受難予告」をされた場面が記されています。

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」(20:18,19)。

マタイ福音書では、先の2回の受難予告では「十字架」という言葉を用いずに殺されることを告げられましたが、3度目となるこの時には、御自身が“罪人として捕らえられ、十字架にかけられる”と、主イエスはハッキリと語っておられます。

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。」と言われている通り、終着点はもう目前に迫っている。神の御許より派遣された主イエスは、御自身に与えられたこの世での働きの完成を見据え、弟子たちへと覚悟するための時間を与えられたのでしょう。

けれども、奇跡の御業を現わし、これまで聴いたこともなかった福音(良い知らせ)である神の御心を語られてきた。そのような圧倒的な指導者が、罪に問われて捕らえられたり、十字架にかけられて死ぬ姿を想像するのは難しいものです。全てを捨てて従った弟子たちにとって、宣教の旅の終わりとは、念願の成就以外には考えられなかったことでしょう。「復活」をたとえ話として聴き取り、主イエスがユダヤ人の王に就き、ローマ帝国の監督下から皆を解放される姿を、彼らは思い描いたに違いありません。これまでの2回の受難予告では、弟子ペトロが主イエスの言葉を打ち消したり、他の福音書には弟子たち同士で“誰が一番偉いか”と口論する姿が記されていますが、3度目になっても弟子たちは見当違いな行動をとるのです。

「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください』」(20:20,21)。

最初に書かれたと言われるマルコ福音書では、弟子のヨハネとヤコブ兄弟自ら頼んでいますが、ここでは、彼らの母親が来て願ったと記されています。それは、マタイ福音書の著者が弟子たちの権威を守るため、また、十字架の場面で突如現れる女性たちを先に登場させておくためだとも言われています。いずれにしても、主イエスの王座の左右に座るとは、ヨハネとヤコブ自身の願いであったことが分かります。

直前の19章で、主イエスは「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(19:28)と語られました。「復活」とは、神の御心の実現であり、かつて神が約束された事柄の成就です。すなわち、“十字架の死と復活の出来事”を果たされることで、役目を終えられた主イエスは「栄光」を受けることとなるのです。

確かに、栄光とは、人の理解では、輝かしく名誉あることです。そのようなイメージとして捉えていたためか、旅の終わりが近づいたこの時、“栄光の王座に就く”と言われた主イエスの最も近くに座ることが出来るように、ヨハネとヤコブ兄弟(の母親)は願いました。主イエスが「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」と問われようとも、「できます。」と即答する2人の姿より、彼らの無理解が明らかにされるのです。そして、彼らが抜け駆けをしたことに怒る他の10人の弟子たちもまた、同じ思いだったことが分かります。

「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように』」(20:25-28)。

主イエスはなぜ、神の御許から地上へと降られたのか。それは、「仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるため」だと言われます。

神との繋がりは、人の罪によって断ち切れそうな状態にあった。けれども、主イエスが身代金となり、再び結び合わせてくださったのです。このことを、キリスト教会では「贖い」と表現します。侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられることを御存知でありながらも、苦しむ者と出会われつつ、主イエスは与えられた道を歩み抜かれました。それは、私たちを贖い、神と共にある平安を告げため、そして、復活により死の先にある命を指し示すためでした。

主イエスが立たれたのは神の御心であり、弟子たちが立っていたのは世の常識や自らの願いでした。ここに、神の御心に背く人の罪(的外れ)が在り、なおのこと、主イエスの十字架の出来事が必要不可欠であったことを知らされます。

受難予告を聴いた弟子たちが見当外れな行動ばかりをするのは、主イエスの語られる「栄光の座」について誤解していたからです。そこは、贅沢で金の装飾に囲まれたところでも、月桂冠を被る者の座す所でもありません。痛みと苦しさのどん底、茨の冠を被らされ、死の深みにまで降らねばならない王座なのです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」との問いかけの意味を知らされたならば、誰が「できます」と即答することができるでしょうか。しかし、御自身の御言葉を理解していないばかりか、自らの地位を求める彼らの胸の内をも御存知の上で、それでもなお、「何が望みか」と問われる主の懐の深さに、私たちはこの身を委ねたいのです。

昨年、私たちは熊本地震を体験いたしました。北九州に居ても、大きく長い揺れによって不安で眠れなくなった方もおられるのではないでしょうか。現在でも揺れは続いており、その爪痕は癒えません。むしろ今も、現地の方々は、これからについて考えておられる段階なのです。

地震の情報を検索すると、必ず東北地方の震度も表示されます。東日本大震災より6年が経つ現在もなお、毎日のように多くの地震が起こっているのです。津波によって家が流された土地は何も建てられることなく、広い野原のまま残されている。また、仮設住宅に住み続けている方もおられますし、最近では、福島から転校した先で、いじめに遭う学生についてNewsで取り上げられます。そして、放射能の測定が継続されている通り、原子力発電所の問題に関しても見通しは立たないままです。それでも、刻一刻と時間は進んでいき、新たに起こった事件や災害に上塗りされ、遠い土地に住む人々の記憶からは薄れてしまうのです。

時に、地震が起こるのは神の審きだと語られることがあります。しかし、主イエスの御座が痛みの底にあるならば、苦しさを背負われる被災者お一人おひとりのもとに、今、主イエスはおられるに違いありません。

使徒パウロは、次のように語ります。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリ10:13)。

四旬節を過ごす私たちは、主イエスの宣教の旅のクライマックスである十字架の出来事へと、歩みを進めています。その先に待つのは、“復活”と“神と一つに結ばれる命である”と語られています。この世に、多くの人が集う社会に、他者と共に生きる私たちだからこそ、耐えがたい困難と出遭うこともありましょう。

しかし、痛みの底に立たれた主ならば、必ずどのような困難の中であろうとも伴ってくださることを信じます。逃れの道こそ、私たちの主に他なりません。だからこそ、私たちは主への信頼を携え、共に痛みを背負うお一人おひとりを覚えて祈り続けたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

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