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主の栄光

マタイによる福音書17章1-9節

17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。 17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

これまでの2回の主日礼拝において、マタイ福音書に「山上の説教」として記される主イエスの御言葉を聴いてまいりました。

主イエスは、神が遙か以前にイスラエル民族の先祖と結ばれた契約を無効にされてはおられないこと。そして、御自身が神のその約束を確かに果たす(成就する)ために、来られたことを証しされました。その上で、神に従って生きていると思い込んでいた時代の人々に対して、真に神の御心を果たすことの意味を教えられたのです。

命が与えられて生きる者とされ、他者と共に歩むように形づくられた以上、人は、日常の中で自分自身と隣人の身を守らなければなりません。これだけ多くの人間が生きているのですから、衝突や摩擦によって、敵対する者とも出遭います。それは、時代が異なろうとも同様でしょう。このことを御存知の上で、主イエスは言われるのです。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43,44)。

ただ掟を文字通り実行するだけではなく、その遙か先にある神の御心をも果たす者のみが、神の御前で“自らを正しい”と言うことができる。すなわち、“自らや大切な人たちを守るためには、危害を加えようとする者と対立しなければならない”という構図の中に置かれ、他者との摩擦を避けられない以上、この世界を生きる人間の誰一人として、神の御前に自らを誇れないことを知らされます。それゆえ、主イエスがこの地上に遣わされ、十字架の苦しみを担われたことを覚えたいのです。

弱さを持ち、正しく在れない人の胸の内まで御存知である主は、私たちを受け入れ、御自身の子どもとして大切にする道を選ばれました。私たちは、主イエスの十字架を通して、罪人でありながらも神の義(正しさ)を着せられ、赦された者へと変えられます。ただお独り、赦しを与え得る主が共におられる平安を覚えつつ、私たちは新たに歩み出したいのです。

さて、本日は変容主日です。ルーテル教会では、イースター(復活祭)までの40日間を「四旬節」として定め、主イエスの担われた苦難の道を辿ります。四旬節の始まりは「灰の水曜日」と呼ばれ、2017年は今週の3月1日が、この日にあたります。

毎年、四旬節の直前に「変容主日」が置かれるのですが、語られた御言葉を通して、この主日礼拝の意味について考えてまいります。

「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(17:1,2)。

辞書には、変容とは「姿や形が変わること」を指すとあります。御言葉の通り、主イエスの姿が変わり、御顔が輝き、服が白くなったことを覚え、変容主日と呼ばれるようになったのでしょう。

出エジプト記より申命記に至るまで、エジプトの奴隷として苦役を強いられていたイスラエル民族を、神の任命を受けたモーセが率いていく物語が描かれています。彼は、神の御言葉を民へと語り伝える預言者でした。

古くから“神の御顔を直接見た者は死ぬ”と伝えられていましたが、モーセのみは、神と直接顔と顔を合わせて語り合うことができたと、聖書は記しています。そして、神と対面したことによって、その栄光を受けたモーセの顔もまた、光り輝いたのだというのです。「イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた」(出34:35)。

しかしながら、神の栄光を帯びて肌が光を放ったモーセのようにではなく、主イエスの場合、その御顔自体が“太陽のように輝いた”と言われます。すなわち、主イエスはこの時、神としての御自身の御姿を、弟子たちの前に示されたのです。

本日の御言葉の直前に、主イエスは「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(16:21)と、弟子たちに告げられました。弟子ペトロは「そんなことがあってはなりません」と遮りましたが、主イエスは既に御自身の辿るべき道を見据え、覚悟をされていたのでしょう。それゆえ、苦難の道へと進み行くその時、弟子たちを連れ、山上にて御自身の本来の御姿を示されたこととして、主イエスの変容の出来事を受け取りたいのです。

「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』」(17:3,4)。

モーセとエリヤは、かつての偉大な預言者であり、来る神の国において、神の近くに招かれる者として考えられていた人物です。神としての御姿を示し、偉大な預言者と共に語り合われる主イエスの様子を見て、ペトロは記念するための仮小屋を建て、この光景をその場に留めようとしました。

けれども、ペトロが話し終わらないうちに「光り輝く雲が彼らを覆」い、そこから響く御声に恐れてひれ伏した弟子たちが再び顔を上げた時には、主イエスお独りの他には誰もおらず、御姿も元に戻っていたのだというのです。

「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」(17:9)。

奇跡が見える形で残されるならば、それによって信じる者は多いでしょう。私自身も、その場に居たらペトロと同じようにしていたかもしれませんし、現在にその光景が残っていたならば、主イエスの御言葉は更に広く宣べ伝えられていたに違いないと考えずにはいられません。

しかし、主イエスは、御自身の“神としての栄光の御姿”や、モーセやエリヤという“偉大な預言者と語らう様子”を人々に現わすことはされないのです。むしろ、後に示される十字架の死と復活の出来事と語られた御言葉が、弟子たち一人ひとりを通して手渡されること。このことによって、人々が神に心を向ける者となることを願われるかのように、栄光の輝きを隠し、再び人としての御姿で弟子たちの前に立たれたのです。使徒パウロが、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)と、語っている通りです。

日本福音ルーテル教会は、御言葉を中心に据え、古典的な礼拝の形を保っています。あらゆる物で溢れる現代においての伝道としては、目立たず、好まれるものではないでしょう。実際に、楽器を使って礼拝を行う教会は、出席者が増えています。けれども、その場の雰囲気や高揚感によってではなく、静かに主の御言葉を聴き、味わう礼拝も必要だと感じています。

本日の変容主日において、私たちは主イエスが御自身の本来の御姿を弟子たちへと示し、十字架を見据えて歩み出されたことを覚えます。神としての御力を持ちながらも十字架にかけられ、痛みの底に立たれた方であるからこそ、苦しさの只中にあっても、主が共にいてくださると信じることができます。そして、御自身の命をもって、再び神と私たちを繋げてくださった主の御心と、それほどまでに神から遠く離れていた自らの姿を考えずにはいられません。

次週、私たちは四旬節を迎え、苦難の道を進まれる主の歩みを辿ってまいります。復活された主を覚え、その栄光に照らされている者として、語られる御心に聴いて行きたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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