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主は宣言される

マタイによる福音書5章13-16節

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、ガリラヤ地方の町カファルナウムで、主イエスが4人の漁師を弟子として招かれた出来事を、御言葉より聴きました。

何があったのかは詳しく語られていませんが、漁をするために必要な網を捨て、舟や父親をその場に残して従うとは、よほどの覚悟と決意が必要です。時代背景から考えますと、彼らの願いは“ユダヤ人の独立”でしょう。外国の監督下で自由が制限され、力関係から黙って従うしかなかったユダヤ人たちの多くは、独立を夢を見、神より遣わされる指導者を待ち望んでいました。主イエスの姿は、彼らの求める王と重なったに違いありません。いずれにしても、すべてを捨てて主イエスに従っていく漁師たちの姿から、彼ら自身の内に、そこまでしても成さなければならない何かがあったことが分かります。

ガリラヤ湖畔を散歩しておられた主イエスにも、成さねばならないものがありました。神の御心です。神の御心をこの世において実現するために、主イエスは遣わされました。そのために共に働く仲間を探す中で、出会った漁師たちの胸の内に、神の御心とは異なる方向を向く願いがあることを御存じでありながらも、主イエスは彼らを招かれたのです。

使徒パウロは、次のように語ります。

「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。…中略…わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。……ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。……兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。……それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(Ⅰコリ1:21-29)。

神が形づくられた者一人ひとりを信頼し、御心を現す働きを託されたこと。また、弱さや負い目を持ち、他者と比較しては自信を無くそうとも、その小さな一人を通して、神は救いの御業を世に現される方であることが言い表されています。

この身が用いられ、神の御業を目撃する時、同時に、共におられる神と、私たちは出会うこととなります。すなわち、主イエスの招きとは、神に結ばれる出来事であることを知らされるのです。漁師たちが召されたように、今、私たちを招かれる主の御声を聴きます。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:19)。倣うべき御姿を示された主の進まれた道を、神に伴われる私たちも辿りたいのです。

さて、本日の御言葉は、4人の漁師を弟子とし、多くの人々を癒された主イエスのもとへと群衆が押し寄せ、山上に上り語られた内容です。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(5:13)。

塩とは、私たちの生活にとって必要不可欠なものです。食べ物に味をつけるだけではなく、防腐効果によって長期間保存できるようになります。摂取しすぎは何でも悪いものですが、塩分がなくなれば、人体は機能しなくなります。また、エジプトでは、魂が戻るためのミイラ作成の防腐処理や、物を清める役割として祭儀にも用いられたようです。

他の物に味をつけ、活かし、命を与えるかのように長期保存まで可能にする。主イエスは、御自身の話を聴く弟子たちや傍に居た群衆へと、「あなたがたは地の塩である」と言われました。しかも、“他者を活かす者となれ!”という命令ではなく、“あなたは必要不可欠な塩である”と宣言されたのです。

現在のような加工技術はない当時は、結晶化した塩をそのまま用いていたため、不純物の多いことで、塩味がしないものもあったようです。その場合、塩は捨てられていたのでしょう。塩の塩味とは、塩自身がつけたものではなく、創造された方の業です。神に背き、自己中心的に生きる者は、神の賜物を捨てることになり、いくら自らを誇ろうとも、それは、味のない塩のように空しいのだということでしょう。

主イエスが「あなたがたは地の塩である」と宣言された通り、“塩にとっての塩味”のように、私たちはすでに、“自らの分の賜物”と“人を生かし活かす御言葉”を受けているのです。主イエスを通して、神と結ばれている真実を告げられた私たちは、主と共にあることで塩味がつけられていることを覚えたいのです。

主イエスは、続けて言われます。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(5:14-16)。

「光」は、地上に生きる者すべてにとって必要なものです。周囲を明るくするだけではなく、照らしたものを暖めます。人体には、日光に当たらなければ生成されないビタミンがあり、植物は光合成をして酸素を作り出します。光があるからこそ世界は成り立ち、それに照らされ続けることで、すべての生き物は生きることができるのです。

塩について言われたのと同じように、主イエスは、「あなたがたは世の光である」と、宣言されます。山上の町の輝きが遠くに居ても見えるように、ともし火が部屋を照らすように、人の内から光が輝き出し、周囲を照らしていくのだというのです。そして、 “ともし火を升で隠すような愚かなことをしないように、神が備えられた光は輝かさなければならないのだ”と、主イエスは教えられます。

山上の説教を語られた時、そこに集ったのは、弟子とされた、御業を目撃して驚いた、救いや癒しを求めていたなど、いずれも苦しみ、迷い、現状を変えたい、滞った人生に流れがほしいと願っていた人々でした。世間からすれば、羨ましがられることはなく、むしろ、軽んじられ、小さくされていた者たちだったことでしょう。

しかし、主イエスは、彼らこそ“地の塩、世の光だ”と、言われました。それは、この地・この世にとって、また、そこに生きる者たちにとって不可欠な存在であるということ。何よりも、神が必要とされ、一人ひとりがこの場に生かされているのだということの宣言です。神の御許から来られた方のみが語り得る福音を、主イエスは痛みを負う者たちへと手渡されたのです。後に、弟子たちが十字架の前から逃げ去ることを、そして、彼ら自身のすべての歩み、人には言えない醜さや弱さをも全て御存じの上で、それでもなお信頼し、宣言されたことを知らされます。

私たちは今、この主の御言葉を受け取っています。自らの内に、主が語られるような塩や光が見出せなかったり、ふさわしくないと身を引き、もったいないと遠ざける方もおられるでしょうか。

しかし、自ら見出せず拒否しようとも、主が宣言されている以上、それを覆すことはできません。何よりも、塩味をつけるのも、光を生み出すのも、私たち自身ではなく、神の御手の業です。すなわち、私たちは、神の塩、神の光を受け取る者とされているのです。

神御自身の御手の業が、私たちを通して世に現されていき、私たちはそれらを真っ先に目撃する者として生かされていきます。主が、それほどまでに私たちを信頼し、働きを託しておられることを覚えつつ、与えられた賜物を携え、私たち自身の日常へと遣わされていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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