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出発点

マタイによる福音書4章12-17節

◆ガリラヤで伝道を始める 4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。 4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。 4:14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。 4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、 4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」 4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、ヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を宣べ伝える洗礼者ヨハネによって、主イエスが洗礼を受けられた際の出来事を、御言葉より聴きました。

聖書には、洗礼を受けられた主イエスに向かって、“天が開き、霊が鳩のように降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)との御声が聞こえた”と、記されています。それは、ユダヤ人の祖先であるイスラエル民族が、バビロン捕囚で国を追われ、神殿を壊され、解放されることもなく、70年以上も捕らえられる中で、祈りつつ待ち望んでいた光景でした。500年以上の長い時を経て、ついに、主イエスの洗礼の出来事において、預言者イザヤを通して語られた神の約束が果たされることとなったのです。

宣教の旅の直前、未だ皆に知られていなかった主イエスは、御自身も人々の列に加わり、洗礼を受けられました。それは、私たちが気づかずとも、主が私たちの只中におられることの証しです。主イエスに向かって開かれた天は、私たちに対しても開かれており、そこから降る聖霊と響く御声を、私たちは今、受け取る者とされているのです。

主の働きかけによって私たちの信仰は起こされます。その信仰に押し出され、私たちが洗礼に与るならば、洗礼とは主の招きと言えましょう。常に、私たちが行動を起こすよりも先に、主が働かれていることを覚えたいのです。

また、聖書において、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)とある通り、私たち一人ひとりの存在が、天全体の喜びだと語られています。今、主によって望まれ、喜ばれる者として、私たちが生かされていることを、御言葉を通して知らされていきたいのです。

さて、本日の御言葉は、洗礼を受けられた主イエスが、荒れ野にて悪魔より40日間の誘惑を受けられた後の出来事が語られています。

「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(マタイ4:12)。

洗礼者ヨハネは、救いを求めつつも見出せずに迷う者たちへと、「悔い改めの洗礼」という前代未聞の道を示しました。貧困層から支配層に至るまで、多くの人々が彼のもとへと押し寄せたことが、聖書には記されています。こうして、洗礼者ヨハネは民衆から支持されることとなったのですが、当時ガリラヤの領主だったヘロデ・アンティアパスを批判したことにより、投獄されてしまいます。批判の内容とは、“領主ヘロデは、異母兄フィリポの妻ヘロディアと恋に落ち、離縁させて自らの妻とした”というものでした。

主イエスは、母親同士が親類にあたり、神の御心を現す同胞でもあった洗礼者ヨハネと、深く関わっていたのでしょう。関係性が問われれば捕らえられることとなるためか、領主ヘロデがおり、危険とも思えるガリラヤへと退かれたようです。

ガリラヤは、ガリラヤ湖の北の地域一帯を指します。エルサレム神殿を中心とするユダヤ社会から見れば、相容れないサマリア人の町を越えた先、「約束の地カナン」の北端に位置する辺鄙な町であったことでしょう。外国の侵略を受けた際には、真っ先に占領されたことが知られておりますが、一方、貿易の一つの拠点ともされたようです。アッシリアと、その後の新バビロニア王国により捕囚され、移民政策によって外国人が流れ込んでくる。歴史家ヨセフス(紀元37-100年頃)は、ガリラヤの小さな町でも人口は15,000人ほどであったと言っています。さすがに多すぎるとは思いますが、祭りが行われていない普段のエルサレムよりも、ガリラヤ地方の方が栄えていたことは確かでしょう。そのようなガリラヤへと、主イエスは退かれたのです。

「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』」(4:13-16)。

先ほど申しました通り、ガリラヤには多くの人々が住んでいたのであれば、その中には華やかな生活をする者たちもいたに違いありません。そのように優雅に過ごすことができるのは、主に外国から移住してきた者やユダヤ人の富裕層に限られていたことでしょう。貧しい者たち、特にローマの監督下に置かれていたユダヤ人たちは、後から移住してきた者たちの手によって大切な故郷が開発され、住んでいた地を奪われようとも、黙って従い、親より受け継いだ仕事を淡々と続けていかなければなりません。

かつて「出エジプト」の出来事を通して、先祖を救い出された神の御業を覚えつつ彼らは歩んでまいりましたが、堪え忍ぶには長すぎる時が流れていました。ユダヤ人の国として独立を果たすことを夢見ながらも、“約束の王、救い主があなたがたのもとに来る”との神の約束が果たされないのではないかと、諦めつつある者たちの住む地へと、主イエスは来られたのです。

「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(4:17)。

「悔い改めよ」と訳されるギリシャ語の「メタノイア」は、「思い直す、視点を変える」などの意味を持つ単語です。カトリック教会の本田哲郎神父は、この単語を「低みに立って見直しなさい」と訳しておられます。それは、ギリシャ語の「メタノイア」に対応するヘブライ語の「ニッハム」が、「痛み・苦しみを共感・共有する」という意味を含んでいるためです。神の御心に立ち、十字架の死によって、救いの道を切り開いてくださった方。はらわたが痛むほどの想いをもって、私たちの痛みや苦しみを御自身の物としてくださる主イエスの御姿そのものです。主イエスのおられる場所、そこからの視点に共に立つよう招かれていることとして、「悔い改めよ」との御言葉を受け取りたいのです。

また、続いて「天の国は近づいた」と、語られています。聖書には、「わたしは熱情の神である(口語訳:ねたむ神である)」(出エジ20:5)との御言葉が記されています。これは、小さな一人ひとりに対しても固執し、恵みを与えられる神の熱意が示されているのですが、次第に、人々は“審かれない生き方をする”というところばかりに関心が注がれるようになるのです。だからこそ、自らが正しくあること、努力によって救いや永遠の命を勝ち取るように教えられていた時代を生きる者たちへと、「天の国は近づいた」と、主イエスは語られるのです。

私たちが努力して見つけるものでも、個々人の功績によって到達するものでもなく、天の国が自ら私たちのところへと近づいてきているのだと言われる。救いを求める者、苦難の只中に置かれつつも、自ら努力できない立場に置かれる者たちにとっての福音(良い知らせ)を、主イエスが神の御許から伝えに来られたことを知らされるのです。

外国の都市の狭間で堪え忍びつつ生きる者たちの町を、主イエスは宣教の旅の出発点とされ、神お独りのみが語りうる福音を告げられました。弱く、苦しむ者たちの間に立ち、彼らの重荷を担われたように、主は私たちの負いきれない重荷を共に担い、この歩みに伴ってくださる方であることを信じます。マルティン・ルターは、「主がおられるならば、私は地獄にでも行こう。主がおられるところこそ、天国だからだ」と語ったと言われますが、私たちもまた、「低みに立って見直しなさい」との招きに聴き、主と共に立ち、神の御心を私たち自身の心として受け取る者とされていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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