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開かれた天

マタイによる福音書3章13-17節

3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」 3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。 3:9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、東方のマギ(星占いの学者)たちが「ひときわ輝く星」を研究し、“ユダヤ人の新たな王の誕生を知らせる星だ”と確信して旅立った出来事を、御言葉より聴きました。

彼らは旅の途中で星を見失いましたが、見当をつけて訪れた王宮において、聖書に記される“ベツレヘムから指導者が現れる”との預言者の言葉と出会うこととなります。聖書の御言葉を携えて出発した時、ひとたび見失った星が再び輝き、東方のマギたちを主イエスのおられる家まで導いたのだというのです。

「顕現」と訳されるギリシャ語「エピファニー」は、「輝き出でる」という意味を持ちます。ユダヤ人の間で“救われない者”とされていた外国に住む者たちへと、ひときわ輝く星を通して、主イエスのお生まれが告げられました。主イエスの誕生とは、ユダヤ人だけではなく、この世界に生きる一人ひとりにとっての福音(良い知らせ)として現されたものであることが明らかに示されたのです。神は、救いを願わずともマギたちの前に星を輝かせ、研究成果を知ろうと旅立つ彼らの道しるべとされ、見失って途方に暮れる彼らの上に再び星を配置し、主イエスのおられる場所へと導かれました。東方のマギたちが気づかないところで、神御自身が働かれ、その御心を示されたことを覚えたいのです。

彼らと同様に、私たちも主の徹底的な恵みの内に置かれる者に違いありません。主御自身が働いてくださるからこそ、いかなる暗闇の中に置かれようとも、主の御業によって希望は輝き出で、その光は絶えることなく私たちを照らし続けます。主に信頼してこの身を委ね、顕現節を過ごしてまいりましょう。

本日、私たちは主の洗礼日を迎えました。東方教会(正教会)では、古くから“顕現節は主の洗礼を祝う時”とされてきました。4世紀ごろ、西方教会(カトリック)は顕現節を取り入れましたが、東方のマギたちの聖句と結び付けられるようになり、主の洗礼を祝う意味合いが薄れていったようです。それゆえ、主の洗礼日は、顕現節と重なるのです。与えられた御言葉に聴いてまいります。

「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(マタイ3:13)。

この直前には、洗礼者ヨハネが荒れ野に姿を現し、人々へと「悔い改めの洗礼」を呼びかけていった出来事が記されています。「罪」とは「的外れ」を指し、神の御心から離れていく人の姿を表します。信仰深さを自負する者であろうとも、的外れな方向に進む以上、救いを見出すことはできません。主イエスの時代、貧富の差がある社会の中で、貧しさに苦しむ人々と同様に、高い地位に就き、聖書の言葉を教える立場にある者たちもまた、不安や迷いの中に置かれていました。

それゆえ、人が作り上げた信仰に立つのではなく、今一度、神に向き直るように、洗礼者ヨハネは「悔い改め」を呼びかけたのです。そして、全身を水に浸し、身を起こして水から上がるときに、新たに生き始める者となるように願いを込め、彼はヨルダン川で人々へと洗礼を授けていきました。

冒頭の「そのとき」とは、洗礼者ヨハネの活動の真っ最中ということです。滞った人生に流れがほしい、現状を変えたいと願って集まった人々に紛れ、主イエスもまた、洗礼を受けるために、洗礼者ヨハネのもとを訪れられたのだというのです。

「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」(3:14,15)。

マルコ福音書では、主イエスと洗礼者ヨハネの会話について一切触れられていませんが、マタイ福音書には、二人の交わした話の内容が詳しく書かれています。

荒れ野での活動の当初から、洗礼者ヨハネは「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」(3:11)と、人々へと語っていました。その通り彼は、訪ねてこられた主イエスを前に、“わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきだ”と身を引こうとしましたが、宣教の旅を始めるにあたって、神の御心に適う悔い改めの洗礼を、主イエスは洗礼者ヨハネより受けられたのです。

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(3:16,17)。

旧約聖書のイザヤ書には、バビロン捕囚期に預言者が語った言葉が記されています。故郷を奪われ、信仰の中心である神殿は破壊され、異国の支配下に置かれる中、いつ帰ることができるのかも分からない。イスラエルの民は、“いつか神が贖い出してくださるに違いない”と、悔い改めつつ、神の救いの時を70年間待ち続けたのです。

このイザヤ書において、約束の平和の王の上には「主の霊がとどま」り(11:2)、民を贖い出すために身代わりとされる苦難の僕の上に、「わたしの霊は置かれ」るのだと、語られています(42:1)。また、先の見えない苦しさの中で、「あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください」(63:19)と、願う者の言葉も記されています。

本日の御言葉において、“洗礼を受けられた主イエスに向かって天が開き、神の霊が鳩のように降り、天から神の御声が聞こえた”と、記されています。バビロン捕囚以降、イスラエルに連なる全ての民が待ち望んでいた出来事が、この時、果たされたことを、私たちは知らされるのです。

主イエスの洗礼の出来事を通して、私たちは気づかされます。

苦しむ者の祈りを聴かれる神は、預言者を通して語られた約束を必ず果たされる方であるということを。神によって遣わされた主イエスは、救いを見出そうとする民の列に並び、洗礼を受けられました。私たちが気づかなくとも、主は常に私たちの只中におられるのだと知らされます。そして、主に向かって天が開き、聖霊が降られたならば、主に伴われる私たちもまた、この出来事に与る者とされているのです。

主の洗礼によって開かれた天は、“閉じられた”とは記されません。私たちは神の御許に向かう術を持ちませんが、主の洗礼によって開かれることとなった天は、今は、私たちのために開かれ続けているのです。主に伴われる限り、私たちの行きつく先が神の御許とされていることを覚えたいのです。

洗礼とは、私たちが救いを勝ち取るための儀式ではなく、主と共に生きる者に与えられた徴です。それは、私たちの決意からではなく、すべてを御存じでありながらも、私たちを引き受ける覚悟をされた主の御心から、共に歩もうと招かれる主の呼びかけから始められる、たった一度きりの貴い出来事なのです。

洗礼を受けようとも、この世を生きる限り、辛く耐え難い出来事と出遭いますが、洗礼を思い起こすたびに、私たちのこの苦しさや痛みを共におられる主が分かち合い、担ってくださる(イザヤ53:4)のだと励まされます。共に悩みつつ生きる信仰の友が与えられている恵みによっても支えられるのです。

開かれた天より響いた「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:17)との御声に従い、日々与えられる御言葉に聴いていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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