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恵みの年

  • Jan 1, 2017
  • 7 min read

ルカによる福音書13章6-9節

◆「実のならないいちじくの木」のたとえ 13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

主によって守られつつ、新たな年を迎えることができました。これまでの歩みに伴ってくださった主に感謝いたします。

日本の正月では、年が明けたこと、無事に新たな年を迎えられたことを覚えて、「あけましておめでとうございます」と挨拶を交わされます。けれども、人生が航海にたとえられ、順風満帆に進み続けることができないように、昨年一年を振り返るとき、悲しく辛い事や、決して「おめでとう」とは言えない事など、自らを根底から揺るがし、打ちのめす出来事が、お一人おひとりの歩みにおいておありになったことでしょう。私たちは、毎年リセットすることのできない時の流れを生きており、正月を迎えようとも、昨年に続く日々を送っていかなければならないことを思い知らされます。

しかし同時に、耐え難い苦難の中でも、主の御言葉が語られたこと、信仰の友の祈りがあったこと、主が結んでくださった人との出会いや、与えられたあらゆる出来事に支えられたことをも思い起こすのです。信仰を通して考えるならば、私たちの思いや願いを超えて支えられた出来事一つひとつは、主によって与えられた恵みに違いありません。昨年の私たちの歩みのどこに目を向けようとも、その時々に、共におられた主と出会うならば、これほど心強いことはありません。

主は片時も離れることなく、私たちの人生の片棒を担ってくださっているのだと、聖書は私たちに告げます。新しく与えられた一年においても、御言葉を語られることを通して、私たちを大切に想われる主の御心を、一つまたひとつと知らされていきたいのです。

さて、本日与えられた御言葉には、主イエスのたとえ話が記されていました。マルタとマリアの家を訪れ、ファリサイ派の人々によって食事に招かれて論争し、噂を聞きつけて集まってきた群衆に囲まれる中で、主イエスは御言葉を語っていかれました。その中の一つが、本日の「実のならないいちじくの木」のたとえです。

「アリとキリギリス」、「ウサギとカメ」、「北風と太陽」などで知られるイソップ寓話は、日本でもよく読まれる物語です。このイソップ伝の元とされたと言われる物語の一つに、『賢者アヒカルの言葉』というものがあります。紀元6世紀には、パピルスに書き記されていたようですから、それ以前の時代に、すでに人々の間で語り伝えられていたのでしょう。このアヒカルの物語の中に、本日の御言葉と深く関わる内容が記されているのだというのです。

「水辺に植わっている木があった。しかし、その木は実を生じなかったので、持ち主は木を切ろうとした。すると、木が持ち主に言った。『わたしを植え替えてください。それでもなお、わたしが実を生じなかったら、わたしを切り倒してください』するとその持ち主は木に言った。『お前は、水辺に立っていたのに実を生じなかった。他の場所に移されてどうして実を生じるだろう』と」(https://kuwamizuchurch.wordpress.com/2014/01/23/)。

実らなかった木を切り倒そうとする主人に対して、木自らが“違う場所へと植え替えれば実るはずだ”と訴える。しかし、その木は、豊かな水辺に植えられていました。責任転嫁する木の訴えは、主人によって“場所を変えようとも実ることはない”と、一蹴されることとなるのです。この後、この木は主人によって切り倒されることとなったことでしょう。

この物語は、主イエスの時代のユダヤ人の間では、よく知られていたようです。このことを念頭に置いてか、主イエスは一つのたとえを話されました。

「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』」(ルカ13:6,7)。

いちじくは、聖書においてぶどうやオリーブに続いて語られることが多い植物です。過酷な土壌でも育ち、寿命も長く、何よりも大きく育つことで生い茂る葉によって、日陰を作ることでも喜ばれていました。そのように、いちじくはぶどうと共に植えられ、大切な食糧として重宝されていたようです。

語られたたとえ話では、ぶどう園内に植えられていたいちじくの木が、3年たっても実らないことに落胆し、主人は抜いて他の植物を植えるように園丁へと命じました。

他の聖句に、「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」(マルコ12:1)とあるように、ぶどう園の主人は、収穫のための準備をすべて整える者であるということ。また、本日の箇所でも、「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき」とあるように、主人自身が想いを込めて、ぶどう園内の木を植えたことを知らされます。

植えたからにはその実りを楽しみに待つのは当然のことですが、待てども、いちじくの木は実をつけることはありませんでした。情熱を向けていたからこそ、主人は落胆と怒りをもって、その木を切り倒す決断をすることとなったのでしょう。

ここで話が終わるならば、先に紹介した賢者アヒカルの“言い訳しようとも、切り倒されることとなった木”の物語と同じように、“この木のように切り倒されてしまう前に、自らを省みて実るための努力をするように”との教訓を聞きとるほかありません。

しかし、主イエスは、続けて言われました。

「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」(13:8,9)。

園丁の言葉から、彼がこれまでの3年間にも、いちじくが実るために必要な手入れを行ってきたことがうかがえます。主人が期待を込めて植えたのと同じように、園丁もしっかりと手入れを行ってきた。そして、今年実らなくても、来年は実をつけるかもしれないという期待を込めて、“さらに入念に手入れをするので、切り倒さないでください”と、主人に訴えているのです。

ここで語られるぶどう園とは世界であり、主人は神、管理を任された園丁は主イエス、植えられた木とは私たちを指します。収穫に必要なすべての物を整えた主人のように、神はこの世界を造られました。そして、豊かな手入れによって木が実を結ぶように、神は形づくられた一人ひとりへと十分な糧を備えられ、“人が神に心を向け、共に在ることで平安を得、その命を全うすることでを神を証しすること”を願われました。けれども、その御心とは異なり、人は神に背き、互いに傷つけ合い、救いようのない社会の中で価値に差をつけ、弱い者は道端で倒れている。情熱をもって眼差しを向けられるがゆえに、神は落胆し、怒りを向けられるのです。

しかし、神はすべてを切り倒されるのではなく、この世界へと御自身の御心を現し、木である一人ひとりを手入れする園丁として、愛する御子を遣わされました。情熱をもつがゆえに切り倒そうとするほどの怒りを燃え上がらせようとも、御心を共有する園丁の訴えを聴かれ、審きを思いなおされるのです。

私たちは、昨年も、その前も、長い間、実りのない木であったかもしれませんが、主イエスは“私が必要な手入れするので、あと一年待ってください”との祈りによって、私たちの新たな一年を願ってくださいました。これから先も、神が願われる実りは結べないかもしれませんが、それでも、主イエスは、私たちを手入れし続け、神に“もう一年待ってください”と訴え続けてくださるに違いありません。

私たちは主に望まれて、今、ここに生かされています。困難の中に置かれようとも、主は共におられ、怠ることなく手入れし続けてくださいます。主によって備えられる福音に根差し、養われる者として、恵みの年を歩みだしたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

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