マリアの賛歌
- jelcnogata
- Dec 18, 2016
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ルカによる福音書1章46-56節
1:46 そこで、マリアは言った。 1:47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 1:48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、 1:49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 1:50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。 1:51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、 1:52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、 1:53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。 1:54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、 1:55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」 1:56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、御言葉を通して、主イエスの父とされたヨセフの物語を聴きました。そこには、これから妻となるマリアが、聖霊によって身ごもっていることが明らかにされ、今後どうするべきか苦悩するヨセフの姿が描かれていました。「正しい人であった」(マタイ1:19)と記される彼が、なぜこれほどまでに悩むこととなったのか。それには、掟が関係していました。
旧約聖書の律法では、結婚相手がいる女性が他の人と関係を持った場合、人々の前で裁判が行われ、有罪ならば石打ちの刑に処せられることとなりました。10代半ばで結婚し、結婚後に初めて関係を持つ習慣のある社会の中で、婚約中のマリアの妊娠が知れ渡れば、事情を話さなくてはなりません。限られた時間の中では、身に覚えのない赤ちゃんについて気持ちの整理をつけることができなかったのでしょう。最終的に、ヨセフは「表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。
しかし、神は、人の考え得る最善とは異なる道、マリアを受け入れ、お腹の中にいる赤ちゃんの父となる道を、ヨセフに指し示されました。天使を通して神の御心と、預けられた赤ちゃんが人々を罪から救い出す者となることを告げられたことで、ヨセフはマリアを妻として迎え、主イエスの父という使命に向かう者へと変えられることとなったのです。
さて、マリアが身ごもったことでヨセフは非常に悩むこととなりましたが、マリアにとっても、そのお告げは手放しに喜べるものではありませんでした。その時の出来事について、聖書は次のように伝えています。
「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい』」(ルカ1:28-31)。
天使の言葉に対して、戸惑い、考え込むのも無理はありません。ユダヤ人たちは、その長い歩みの中で神殿が破壊されたり、他国に捕囚されようとも、また、ローマの監督下に置かれる中で生活しなければならず、外国の文化が流れ込んで肩身の狭い思いをしなければならなくとも、人々はひたすらに神の御業が現わされる時を待ち望み続けていました。“エルサレム神殿の東の門を通って訪れる救い主が、必ず縛られた現状から自分たちを解放してくださる”と、500年以上も信じてきた。その約束のゆえに、彼らは耐え続けることができたのです。
神の御業は、エルサレムにおいて現わされると考えられていたならば、ガリラヤの小さな町に住む、まだ幼さを残す年齢にあったであろうマリアの前に天使が遣わされるなど、誰も想像していなかったことです。マリア自身も、そのように考えていたに違いありません。
また、突如「おめでとう」と語られたとしても、何について言われているのか分からない。そして、神の恵みとして身ごもったことを告げられたならば、夫ヨセフや、先ほどお話しした社会の掟と真っ向から向き合わなければならない立場に置かれることとなるのです。
喜ぶどころか、戸惑うマリアを見て、天使は言いました。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(1:36,37)。困惑の中にあるマリアは、唯一、この出来事を共有できる親類エリサベトのもとへと向かうことにしたのです。
「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう』」(1:41-45)。
マリアは、天使へと「お言葉どおり、この身に成りますように」(1:38)と語りつつも気持ちに整理はつけられず、指し示されたエリサベトのもとへと向かう決意をしました。そして、自分自身やヨセフから、また社会からも認められないと考える中、赤ちゃんが与えられた実感がないまま向かったであろうエリサベトのもとで、彼女の口を通して、はじめて祝福の言葉を受け取ることとなったのです。
迷いと大きな覚悟、助け手との出会いと語られた祝福の言葉を通して、ついにマリアは自らに与えられた幸いを知るに至りました。本日の御言葉は、この時にマリアが語った神への賛美が記されています。
「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから」(1:47-49)。
神は、“律法を忠実に守る教師や祭司、宗教指導者としての地位にある者、正しく生きる人々のみに目を注がれる方である”と、教えられてきた。しかし、小さな町に住み、身分が低く、まだ若いマリアへと神は御子を預けられた。誰も予想しない場所から、大いなる御業を現わされたのです。神の御心が現わされたことを、その身をもって知らされた彼女は、旧約聖書のサムエル記上2章に記される「ハンナの祈り」を基にして、神を賛美しました(年老いたハンナもまた、神に祈りを聞き届けられ、後に預言者となるサムエルの母とされました)。
「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに」(1:49-55)。
神の救いとは、満ち足りた者へと加えて与えられるのではなく、足りず、貧しく、低くされた人、飢えや渇きの中で蓄えがなく、今、救いを求める者へと与えられる。“律法を守る正しい者のみが救われる”とか、“神の命の書に名前が記され、永遠の命に与るための努力をする”とは、人が考え出した条件であり、いくら人の側で悩み続けても、救いに至る道は知り得ないのです。
我が身の小ささを知るがゆえに、マリアは神の御業の大きさを知る者とされました。主イエスのお生まれとは、“神がマリアに預けることを望まれた”というただ一点によって与えられた賜物なのです。
“小さな町に住む小さな娘マリアから、神の御業が現わされた”ということは、世界や社会の中では小さく力のない人、周囲から軽んじられ、希望さえ見出せない状況に置かれる者をも神は御存じであり、暗い日々の只中へと希望の輝きを現わされるということの証しです。
私たちは、神に知られる者として、今、生かされています。神へと心を向ける生活において、あらゆる出来事を通して、また、多くの出会いの中で、自らの人生に現わされる神の御業を目撃するのです。確かに、苦難は幾度も、何度でも私たちに押し寄せます。しかし、主は私たちをご存じであるだけでなく、この道に伴う約束をしてくださいました。ここに、私たちの立つべき安らぎの場が備えられています。マリアがその身に起こされた御業によって主を賛美したように、私たちは自らの歩みにおいて与えられる一つひとつの賜物を数え、共に主を賛美する者とされていきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
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