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新しく示される

  • jelcnogata
  • Nov 13, 2016
  • 8 min read

ルカによる福音書20章27-40節

20:27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 20:28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 20:29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 20:30 次男、 20:31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 20:32 最後にその女も死にました。 20:33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 20:34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 20:35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 20:36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 20:37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 20:38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」 20:39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。 20:40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週の全聖徒主日では、召天者を覚えつつ礼拝のひと時を過ごすことができました。命を与えられた者は、漏れなくいずれ死を迎えることとなりますが、聖書は、“その先に神と共にある命を生きることとなる”という主イエスの御言葉を伝えています。信仰者ならば、この世の死を悲しまず、神の御許に迎えられる喜びだけを得るのでしょうか。否、御言葉に立ち、神の約束を信じていようとも、この世においての別れは、信仰者であっても、大きな悲しみに激しく揺り動かされるのです。それは、私たちがただ死の先のみに希望を置く者ではなく、神の約束に支えられながら、この世界において隣人と共に生きる者であるからです。

この地上における歩みを終えた者の、その旅立ちを惜しみつつも、神の御許での再会を待ち望む。その時まで、確かに共に歩んだ者の姿を覚え続け、平安を祈ることは、残された私たちに与えられた大切な務めでありましょう。何も語ることの出来ない悲しみの中でも、御言葉だけは一つの道を指し示します。復活の主が切り拓いてくださった道が、私たちの前に続いている。それゆえ、大きな悲しみの中でも、私たちは復活の主を証しし、希望を語りうるのです。全聖徒主日にかかわらず、私たちは十字架を中心として、召天者と向かい合いつつ礼拝の時を過ごしていきます。主の結んでくださる確かな繋がりを感じつつ、御言葉に聞いていきたいのです。

本日は、派閥間で論争する宗教指導者たちに対して、主イエスが語られた御言葉が記されています。

ユダヤ人の祖先であるイスラエル民族の歩みは、口頭伝承や細かく覚えなければならない規定は石などに刻まれて伝えられてきましたが、世代交代の際に忘れられたり、侵略を受けて資料が破壊されたりする可能性があります。そこで、しっかりと先祖に関わられた神の御業を伝えるために、主イエスの時代の500年ほど前にはまとめられることとなります。ただ、現在のように一冊の書物としてではなく、各物語に分けた巻物として保存したようです(ルカ4:17)。この巻物は、長い時をかけて書き写され、各会堂に置かれていきました。読み手が増えれば、内容の解釈の方法も多様となります。そのため、ユダヤ人の間にも派閥が生まれていきました。

たとえば、エッセネ派と呼ばれる者たちがおりましたが、彼らは世俗を離れて生活し、独自の信仰を守っていました。その独特な風貌や荒れ野での生活から、“洗礼者ヨハネはエッセネ派だったのでは”と語る学者がいます。また、主イエスの弟子の一人は、熱心党(ゼロータ)という過激派に属していたと記されています。ユダヤ人の独立のために、武力によって対抗した者たちです。私たちもよく知る2大派閥と言えば、サドカイ派とファリサイ派です。前者は、イスラエル12部族の内、レビ族の末裔であり、祭司として任命された者として、神殿での儀式を通して神の御前で人々を執り成しました。サドカイ派の関心は、罪に汚れた身を清め、死の審きを避けることにありましたから、この世における「けがれのない生」を重要視し、死の先での復活を信じてはいませんでした。後者のファリサイ派では、来たるべき終末を見据え、永遠の命に至るために律法を遵守し、罪を避けて生きることを人々に教え、教師たち自身も模範的な生活を心がけていました。

生きるために身を清めるサドカイ派と、復活信仰に立ち、死の先で永遠の命に与ることを願うファリサイ派の間では、同じ聖書を手にしつつも、しばしば意見が分かれ、論争が行われていたことがうかがえます。

さて、ガリラヤ地方から歩み出されて以来、人々の間を歩まれた主イエスの噂は、瞬く間に言い広められていきましたが、サドカイ派は、神殿で人々へと御言葉を語っておられた主イエスへと近づき、噂の人を試そうと、ファリサイ派に対して用いていた反論を投げました。

旧約聖書の申命記は「モーセの説教」とも呼ばれますが、この申命記25章では、“死んだ兄に跡継ぎがいなかった場合、弟は兄の妻と結婚し、後に長男が産れたならば兄の名前を継がせるように”と、語られています。サドカイ派は、モーセの言葉を持ち出し、“7人兄弟の夫を次々と亡くし、規定通り結婚していった女性は、復活した後、誰の妻になるのか”と、復活信仰の矛盾点を指摘しました。

「イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」(ルカ20:34-37)。

(モーセ五書:創世記,出エジプト記,レビ記,民数記,申命記)     

旧約聖書のはじめの五書は、ユダヤ人の信仰の基盤となる書物ですが、ここで語られる神の祝福とは、長生き、子孫繁栄、豊かな土地の所有、多くの家畜の所有を指します。最初に神の恵みを受けることとなったアブラハムからはじまり、イサク、ヤコブ(イスラエル)へ、それぞれの長子へと、神の祝福を受ける権利が引き継がれていきました。モーセが、結婚について定めたのは、神の民とされた者として、長子に引き継がれてきた神の祝福を絶やさないようにするための「レビラート婚」という婚姻制度(方策)でした。

サドカイ派にとって、この五書に直接的に記されていない「復活」は信じるに値しないものであり、“かつて先祖たちに与えられた祝福を引き継いでいくことこそ重要な役割である”と、彼らは考えていたのでしょう。

しかし、主イエスは、モーセが燃え尽きない柴を通して出会った神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であり、同時に、モーセ自身の生涯の歩みに伴われた神だと、すなわち、“かつて天に召された者と共におられるだけではなく、今も、生きて働かれる神なのだ”と、言われるのです。そして、“生涯にわたって共におられる神だからこそ、死の先においても伴い続けてくださるのだ”と、主イエスは証しされます。

また、この世において物質的に恵まれていることが豊かさの象徴であろうとも、それらを神の国に持ち込むことはできず、永遠の命に与る時には、それらは不要となるのだと言われています。その時には、天使に等しい者・神の子とされ、もはや死を恐れることなく、神と共に一つの命に与ることになる。それゆえ、婚姻制度に捉われる必要はないのだと、主イエスはサドカイ派の人々に答えられたのです。

「そこで、律法学者の中には、『先生、立派なお答えです』と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」(20:39,40)。

一連の会話を聞き、主イエスがサドカイ派を黙らせた様子を喜ぶ者もいたようですが、主の御言葉は、そのようなファリサイ派の者たちに対しても語られたのでした。彼らは、与えられている日々の命以上に律法を守ることに気を取られ、その結果、生ける者に伴われる神の御心から離れ、人々から希望を奪い取ることになりました。それゆえ、律法を守り、確固たる地位を築き、神に認めらようとして正しい生活を心がけようとも、この世での名誉や豊かさは持ち越せないこと、そして、生きて働かれる神へと心を向けるようにと招かれたのです。

「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」(20:36)。

十字架にかかられた主イエスによって、神と私たちとの関係は再び結ばれました。そして、過去でも、未来でもなく、今この時を、すでに神の子として引き受けられ、私たちは生かされているのです。この世において、耐えがたい苦難が押し寄せようとも、私たちの神が生きて働かれる方であるならば、決して放り出されたり、忘れられていることはありません。私たちは、与えられた一つひとつの約束に支えられつつ、新たに示された道を歩み出したいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

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