ただ一つ
- jelcnogata
- Jul 24, 2016
- 7 min read
ルカによる福音書10章38-42節
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週は、永遠の命に与ることを願う律法学者の質問に対して、主イエスが語られた「善いサマリア人」のたとえを聞きました。
盗賊に襲われ、全てを奪われて倒れているユダヤ人であろう男の側を、祭司、レビ人、そしてサマリア人の3人が通りがかり、それぞれの対応が描かれた例え話です。祭司とレビ人は、聖書の掟に従い、血や死体に触れないように遠回りをして去っていきました。これに対して、ユダヤ人とは疎遠であったサマリア人は、倒れた男を憐れに思い、手当てをしてからロバに乗せ、宿屋に運んで介抱分の代金を払い、主人に託して用事を済ませるために出かけて行きました。足りない分は、帰りがけに支払うとまで言ったのです。
この助けた者こそ倒れている男の隣人となったのであり、彼の様に、隣人とのかかわりを大切にするようにと、主イエスは招かれました。自らを律し、正しく在ること以上に、助けを求める者の隣人となることを神は求めておられる。当たり前のことでありながらも、永遠の命に与るための道しるべである神の御心が現されたのです。
「善いサマリア人」のたとえは極端ですが、現代にあっても、それぞれが自らの立場を守るために、たった一人が倒れたまま放置される事態は起こっています。学校や職場でのいじめ、ホームレスに対する家屋の撤去や弾圧、軍事費捻出のための社会福祉事業の経費削減など、立場や印象を保つために、様々な場所でルールに押しつぶされる人がいる。そのとき、“神と隣人を大切にしているか”という問いかけが、私たちの間に響くのです。
私たちの間に起こされた信仰とは、自らという土台に根差して身を固める生き方から、神の御心と向き合い、悩みつつ歩む道へと私たちを押し出します。主によって与えられた出会いの中で、通り過ぎるのではなく、立ち止まり、隣人と共に歩む者とされていきたいのです。
さて、本日与えられた御言葉には、マルタとマリアという2人の女性が登場致します。ヨハネ福音書には、次のように記されています。
「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」(11:1-2)。
ヨハネ11章では、病気によって死んだはずのラザロが、御業によって生き返った出来事が伝えられています。
ベタニアはエルサレムから3km程の距離にあり、主イエスは幾度も足を運んでおられます。それは、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11:5)とある通り、彼らを大切に思っておられたからでしょう。御業によって生き返ったラザロ、主に信頼を置くマルタ、主に香油を注いだマリア。彼らもまた出会った主イエスに対して、それぞれの関係性の中で行動を起こしていることを知らされます。
現在読み進めているルカ福音書では、10章でマルタとマリアが初めて登場し、その後に目立って記されている部分はありませんが、そのような背景を考えつつ、御言葉に聴いてまいります。
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください』」(10:38-40)。
一行がベタニアに入った時、それ以前に出会っていたであろうマルタは、主イエスを家に迎え入れました。通常、客人をもてなすのは一家の主人の役割ですが、この時にはマルタが全てを取り仕切り、準備をしています。主イエスお独りであれば準備は少なくて済むでしょうが、弟子たちや従う者たちと一行で訪ねたのであれば、もてなす者たちは非常に忙しかったに違いありません。
その時、一緒にもてなす準備をすべきマリアは、主イエスの足もとに座り、その話に聞き入っていたというのです。忙しさゆえに余裕のないマルタ、自分も聞きたいという思い、手伝おうとしないマリアへの怒りなど、彼女の中には様々な感情が渦巻いていたことでしょう。それゆえ、マルタは自らの不満を、主イエス御自身にぶつけたのです。
「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない』」(10:41,42)。
主イエスは、心乱すマルタに丁寧に語りかけ、“座って御言葉を聞く”というマリアにとって最も必要としていることを取り上げてはならないと諭されました。
この出来事だけ見るならば、“この世の常識に囚われて忙しなく働くマルタが諫められ、主イエスの御言葉を聞くことを選んだマリアの方が賢い”と言われているようにも受け取れます。けれども、皆がマリアのように振る舞うならば、日常生活が回らないことは明らかです。また、主イエス御自身も、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と語り、弟子たちへと奉仕することの大切さを教えておられます。
マルタが主をもてなすことに気を取られ、御言葉を聞かないのが問題とされているのではありません。マリアに必要な「ただ一つのもの」を尊重しつつ、主イエスはマルタへも「あなたに最も必要なものとは何か」と尋ねておられるのです。
主イエスがその歩みの中で人々に手渡されたものは何か。忘れられていた神の御心、赦し、救い。救い主として神の御許から遣わされた主イエスお独りの他に、それらを手渡せる方は居られませんでした。マリアは、“主イエスがおられるこの機会に、どうしてもそれらを受け取りたい”と考えたことでしょう。
何よりも優先し、主の御言葉を聞きたいと願うのは、どのような時か。生活の中で困難を感じる、体調や悩みによって苦しむ、人との関係によって傷つく、神の恵みを感じ取れない、心が飢え渇く。御言葉によって支えられなければ倒れてしまい、他の何によっても満たされない時、最後の望みを置き、御言葉を受け取ろうとするのではないでしょうか。
皆をもてなす必要があり、大切な姉が余裕を失うほど忙しく準備をしている状況で、マリアは何も考えずに座っていられるはずはありません。しかし、それでもなお、主の御言葉を聞こうと座り続けるマリアの姿に、彼女の背負う苦しさを思わずにはおれません。主によって与えられるべき恵み、赦し、救いとは、他の何人も奪うことはできないもの。マリアの重荷を御存知である主イエスは、怒るマルタの名を2度呼びかけ、優しく教えられるのです。
癒しを願うマリアに語り、一時の不満をもらすマルタを諭すことは、主イエスから姉妹への奉仕と言えましょう。同様に、主に祈る私たちの声は聞き届けられているのですから、私たちは日々主によって奉仕され、養われる者でもあるのです。
日常の喧騒の中で、たとえ私たちが主を忘れることがあろうとも、主が私たちを忘れることはなく、私たちが背負うものを御存知の上で仕えてくださいます。礼拝で私たちへと御言葉を語り、道を示し、支えてくださる主の奉仕を申し訳なく思うのではなく、喜びをもって受け取りたい。御言葉を受け取る時には、祈りをもって立ち止まり、他者がそのようにしている時には、「ただ一つ」を奪ったり遠ざけたりするのではなく、主と共に、その人に奉仕する者でありたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
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