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従う

  • jelcnogata
  • Jul 10, 2016
  • 7 min read

ルカによる福音書9章51-62節 9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。 9:52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。 9:53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。 9:55 イエスは振り向いて二人を戒められた。 9:56 そして、一行は別の村に行った。 9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。 9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」 9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週の御言葉は、主イエスが御自身の辿られる道の先には十字架と死が待ち受けていることを、弟子たちへと教えられる出来事でした。

“わたしを何者だと思うか”と問われる主イエスに対し、弟子のペトロは“あなたは「神からのメシアです」(ルカ9:20)”と、主イエスを“偉大な人間”ではなく、“神からの救い主です”と告白しました。この証しを聞き、約束の救い主として神の御心を現すべく世に来られた主イエスは、“わたしは人々から苦しめられ、殺され、三日目に復活することになっている”と、弟子たちへと教えられたのです。

そして、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9:23)と、弟子としての歩みを求められました。主イエスの歩みを辿り、十字架の出来事の悲惨さを知る私たちキリスト者にとって、“わたしと一緒に死に向かう道を歩め”という厳しい御言葉のようにも響きます。

しかし、主イエスの十字架は、死で終わるのではなく、復活と永遠の命に至る道であることを覚えます。私たちが背負うべき重荷を主イエスが担ってくださり、目指す先が死ではないならば、私たちの十字架とは一体何でしょうか。

“主イエスが十字架を背負われることによって与えられた命を生きる。主イエスの死と復活に足元を支えられて生きる”ということでありましょう。

御言葉に生かされる信仰者であったにもかかわらず、神を忘れてしまうこと、身勝手な思いをいだき、行動することがあります。聖書の言う「罪」は「的外れ」という意味ですから、神さまの前にあって主イエスお独りの他に罪なき者はいません。ただ一度きり主イエスの背負われた十字架のゆえに、私たちの新しい命は保たれており、復活の主に伴われつつ、今もなお生かされている。これからも養われていく。このことを噛み締めて生きる道が私たちの背負うべき十字架であると、主イエスは指し示しておられます。

私たちは、主イエスに従うという自らの十字架を背負うことによって、揺るぎない安らぎに与る者とされることを望みつつ、語られる御言葉に聴いてまいりましょう。

さて、本日与えられた御言葉には、受難予告を弟子たちへと語られた主イエスが、いよいよエルサレムを見据えて突き進まれる様子が記されています。

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」(9:51-53)。

ガリラヤ地方からエルサレムの都に南下する場合、直線的に進むならば、サマリア人の住む地域を通ることになります。ユダヤ人は宗教の違いによってサマリアを避けていたため、彼らの村を迂回する習慣でしたが、主イエスはサマリアの村に入られようとしました。また、サマリア人は、旅人が村を通り過ぎることは拒まないにもかかわらず、エルサレムへの巡礼者だけは通さなかったようです。結果的に、主イエスは歓迎されず、他の道をたどることとなりました。

その際、弟子のヤコブとヨハネが旧約聖書の故事(列王下1章)を持ち出して、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と申し出ます。主イエスの、死という隔ての壁と共に人が作り出した国境という壁を取り払い、いずれ御自身の羊として彼らをも呼び集めようとされる思いとは異なり、弟子たちは自分たちの歩みを妨げる人々の滅びを願っています。ここに、神の御心に立つ主イエスと、弟子たちとの間に深い溝があることを知らされます。

さて、主イエスはサマリアの村を離れて進んで行かれますが、そこに12人の弟子以外の人々も伴っていたのでしょう。弟子となることに期待する3人への言葉を通して、主イエスは“弟子としての覚悟”について教えておられます。

「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』」(9:57,58)。

聖書を読み進めることによって、主イエスが十字架の死と復活という御業を現し、父なる神の御許に戻られるために旅をされていることが分かります。それは、主イエスただお独りだけが歩み抜くことができる道です。道の出発点と終着点だけでなく、苦難と死という試練と使命が待ち受けていることさえ知らない者へと、主イエスは御自身には“枕する所もない”という言葉でもって、伴う道が過酷なものであることを告げられるのです。

「そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい』」(9:59,60)。

聖書には、十戒の一つとして「あなたの父母を敬え」(出エジ20:12)という掟があり、主イエスの歩まれた時代にも、優先すべきものとして守られていました。特に、父を看取る責任は、労働や兵役などすべての要求を辞退することが出来る特権として認められていました。自分の名誉を損なうことなく、責任を放棄できる逃れの道であったのです。

主イエスは、決してそれを否定されたわけではありません。しかし、弟子として従う場合に、残した家族の生活を守られるのも、死の先にあってその命を引き受けられるのも神に他ならないのです。足踏みする彼らへと、主イエスはすべてを委ねるべき神を指し示されました。誰もが手放せないものを持っています。その時、なくてならぬものに気づかされ、神への信頼が新たな一歩を踏み出させることを知らされるのです。

「また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた」(9:60,61)。

最後の者は、“あなたに従いますが、(暇乞い)家族と別れるために時間をください”と願いました。畑を作る際、後ろを振り返ったまま耕すと、畝は曲がってしまいます。鍬でも、トラクターでも、牛に鋤を繋いで引く場合も同じです。そのように、“振り返る者は、神の国にふさわしくない”と主イエスは言われます。人は、限りある人生の中で失敗を繰り返さないために、振り返る日々を過ごします。また、それは後悔を残さないようにすることや、自らの「これまで」を確かめることにも繋がるでしょう。自分の出処を持つことは大切ですが、振り返ることは心をそこに残し、心ここにあらずとなり、「これから」が始まりません。

主イエスは、「エルサレムに向かう決意を固められ」、前を向いて進まれます。神の国をこの世に実現するために、そして、限りある人生に終わりを告げ、限りない命に生かされるために歩まれる主イエスの姿を覚えたいのです。

今、主イエスの十字架の死と復活という神の御旨が果たされ、赦しと救いが約束された世界に私たちは生かされ、御言葉を受け取っています。信仰者として主に従いたいと願いつつも、手放せない物があり、この世での責任を負っています。そのことを御存知の上で、主は一人ひとりに信仰によって生きる使命をお与えになりました。私たち自身の覚悟や努力にかかっているのではありません。むしろ、私たちを引き受ける覚悟をされた主の御心にこそ、向き直りたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

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