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主によって保たれる

  • jelcnogata
  • Jul 3, 2016
  • 7 min read

ルカによる福音書9章18-26節

9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」 9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」 9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、 9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」 9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。 9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。 9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週の御言葉には、ファリサイ派の人々より食事に招かれた主イエスのもとへやって来た、「罪深い女」と呼ばれる一人の女性の姿について記されています。彼女は、食事の席に着く主イエスを見つけると、自らの涙で濡らした主イエスの足を髪の毛で拭い、接吻してから香油を塗ったのだというのです。

サンダルを履き、荒野を歩いて旅をする場合、最もよごれるのは足です。この女性は、足を洗うことで自らの謙遜を現し、香油を塗ることで主をもてなし、接吻することで心よりの尊敬を示しました。「罪人」と呼ばれる者たちは、人に触れることは許されず、皆の前に現れることさえ煙たがられたため、彼女が食事の席に割入り、主の足に触れるには勇気が必要だったことでしょう。また、売ればお金になる香油を注ぐことは、彼女自身の生活の保障を手放すことに等しいことでありました。罪人を嫌厭する人々に手助けを頼めないのであれば、なおのことです。

しかし、彼女は突き動かされた。主イエスの御業に触れる体験をしたのか、それを傍目で見ていたのか、御言葉を聞いて衝撃を受けたのか。聖書には記されていない以上、その出来事を知る術はありませんが、主イエスと出会うことによって生活の保障を手放しても余りある恵みと救いが与えられ、行動を起こしたのだと、受け留めます。

主イエスは、彼女の姿を見、人々の前で「罪深い女」というレッテルを拭い、「神に愛される者」と宣言することによって彼女を社会の中へと取り戻されました。人々によって裁かれ、生きる資格さえないかのように扱われている人々へと、赦しと救いを手渡される。その神の御心が、小さくされた者の前に現された出来事として、私たちは覚えたいのです。誰かを小さくし、端へと追いやるような常識や価値観があるならば、主と共に私たちはそれらと向き合い、打ち崩していきたい。自らにではなく、神の御心に根差す者でありたいのです。

さて、本日の御言葉には、主イエスの受難予告が記されています。5,000人を5つのパンと2匹の魚によって満たされた後、主イエスはお独りで神に祈っておられました。(聖書には、そのように大きな御業を現されるたびに、神に祈られる主イエスの御姿が記されています。)その際、側で待機していたであろう弟子たちに向かって、主イエスは尋ねられました。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」(9:18)と。百人隊長の瀕死の部下を癒し、ナインの町では死者をよみがえらせ、罪深い女と呼ばれていた者を神の権威によって赦す。そして、ベトサイダでは5,000人を糧によって満たされたことで、さらに評判は方々に広まり、「イエスとは何者なのか」と噂されるようになったことでしょう。人々に挙げられた「洗礼者ヨハネ」、「エリヤ」という偉人の名前、また、「だれか昔の預言者が生き返った」などの言葉からも、主イエスもまた、偉大な預言者の一人であると期待されていたことが分かります。預言者とは、神の言葉を預かり、人々に告げる者です。偉大であろうとも、人であることには変わりないのです。

「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシアです。』イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている』」(ルカ9:20-22)。

ペトロは主イエスの問いに対し、「神からのメシアです」と答えました。メシアとは旧約聖書のヘブライ語では「油注がれた者」という意味を持ちます。王となる儀式の際に、頭に香油を注ぐことから、「メシア」とは「王」を指す言葉であり、皆が待ち望んでいた存在であるため、「救世主」という意味も持つようになります。新約聖書のギリシャ語では「キリスト(救い主)」と訳されます。

ペトロは、人々とは異なり、主イエスを“神の御許から遣わされた王、救い主だ”と言い表したのです。聖霊なる神の働きかけがなければ、ペトロはこのように告白することはできなかったことでしょう。主イエスは、ペトロを通して現された御業として“御自身の正体についての証し”を確かめた後、これから起こることとなっている受難と復活の出来事について弟子たちへと教えられました。

「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」(9:23-26)。

主イエスが背負われる十字架とは何であるのかを聖書は告げています。御自身に向けられる人々の憎しみや積み重ねられる罪、それでもなお神に背き続ける人々の姿。それらの重みが加えられた十字架を、鞭打たれ、衰弱するその身をもって、主イエスは背負われました。人々からは失望され、弟子たちにさえ見捨てられる中、“神がそのように望まれるなら”というただ一点のゆえに、神の御心に従って、その重い十字架をお独りで背負われたのです。

主は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語られます。私たちの十字架とは、一体何でしょうか。生きる上で引き受けなければならない苦しさや悲しさ、痛みや喪失感というものでしょうか。いずれにしても、人は重荷に耐え切れず、崩れ落ちそうな身から、背負っている十字架を降ろしたいと願います。

思えば、極刑の道具として作られた十字架が示すものは、「死」です。すなわち、十字架を背負うことができるのは、ただ一度きりであるはずです。実際に、主イエスの十字架というだた一度きりの出来事によって、繰り返される必要のない、決して朽ちない神の赦しが伝えられました。

では、一度きりではない十字架とは、また、それを日々背負うとはどういうことか。主イエスがたった一度きりの十字架を背負われたことによって与えられた命を生きる、「主イエスの死と復活の上に成り立つ生活」を生きるということでありましょう。“偶然生きている”と考える自らを捨て、“神に養われつつ、今、生かされている”という土台に立つ。日々、このことを思い起こす者として歩むようにとの主イエスの呼びかけが聴こえます。

私たちが生きる上で背負わざるを得ない重荷とは、人に語ることができないものや、負い目によって膨らみ続けるものがあることでしょう。主イエスの十字架の死と復活によって、神の赦しと救いを手渡されつつも、依然として背負うべき重荷に悩み、苦しさを感じずにはいられない時もあります。

しかし、主は“日々、自分の十字架を背負いなさい”と言われますが、重荷を降ろすなとは語られません。主が「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)と語られる通り、主の十字架の死と復活の上にある命を生きる私たちは、“日々、自分の十字架を背負う者”であると同時に、“日々、悔い、赦される者”に違いないのです。そして、主と共なる“くびき”は負い易いと語られています。

また、私たちは、自らの十字架と我が身をまるごと、今、キリストによって背負われています。神の覚悟のゆえに、すべてを担ってくださる主の愛とは、いかに高く、広く、深いものでしょうか。この御心に根差したいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

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