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死の先

  • jelcnogata
  • Jun 19, 2016
  • 8 min read

ルカによる福音書7章11-17節

7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。 7:12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 7:14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 7:15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。 7:16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、カファルナウムという村に入られた主イエスへと、ある百人隊長が部下の癒しを願った出来事を御言葉より聞きました。

当時のユダヤ一帯は、ローマ帝国に監督される地域として、各地に監視する者が置かれていました。独立を願うユダヤの人々にとって、その処置は気に入らなかったことでしょう。ただ、カファルナウムに遣わされた百人隊長は、その土地にユダヤ人の会堂を自ら建て、民と彼らの信仰を尊重するだけでなく、自らの部下をも大切にしていたことで、人々から信用されていたようです。ユダヤの長老たちが、百人隊長の部下の癒しを主イエスへと願いに来たのは、良好な関係が築かれていたためでしょう。

主イエスは、癒しを願う言葉を聞いて百人隊長もとに向かわれましたが、その途中で、今度は百人隊長の友人が“御足労には及びません。ただ御言葉によって命じてください”と伝えるために、遣わされてきたのだというのです。百人隊長は、隊長としての権威をもっていました。その権威によって命じれば、部下はその通りに行動します。「人の権威」でさえ力を持つのであるから、ましてや「神の権威」とは、どれほどのものなのか。御言葉によって命じれば、病気という人の手に負えないものさえも従うに違いないと確信していたことでしょう。

人の世で権威を持とうとも神さまの御前では謙虚であり、高名なイエスさまの御言葉にすべての信頼を置いて癒しを待ち望んだ百人隊長の姿を見て、主イエスは言われました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(7:9)と。神の権威を与る主イエスが、御言葉によって命じることにより、隊長の部下は癒されました。

人は自らの常識に立ち、その枠組みにはめ込む時、主の御言葉を信じ、癒しを待つことなどできません。推し量り得ない神の御業の前で謙虚に身を低めた百人隊長の姿勢に学びたいのです。揺るぎない神に根差し、癒されるより前に、信頼して安心できるならば、これほど大きな幸いはありません。共におられる神を指し示す主の御言葉に聞いてまいりましょう。

さて、本日与えられました御言葉は、これらの出来事に続く新たな出来事として記されています。

「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた」(7:11,12)。

主イエスがカファルナウムからナインの町へと向かわれた時、ちょうど葬儀のために大勢の人々が集まり、棺を担ぎ出していました。詳しくは記されてはいませんが、夫に続き、最愛の一人息子を亡くした母親が、大勢の人に付き添われていたのだというのです。

自らの子を失うとは、いかに苦しいことでしょうか。自分より長生きするだろうと疑わず、その成長を一喜一憂しつつ見守り、期待が膨んでいく。出産の痛みを乗り越えてきた母親は、父親以上に息子を愛しく思う気持ちは大きかったことでしょう。彼女は、夫を亡くしてからは家庭のために働きつつ子どもを養っていたかもしれませんし、すでに息子が一家の働き手であったかもしれません。また、間違いなく将来は母を引き受ける担い手でありました。いずれにしても彼女にとっては、自らの命以上に、何ものにも代えがたい宝であったに違いありません。これほどの悲しみに打ちひしがれている者へと出会ったとき、隣人として一体何と語ることができるでしょうか。周囲の人々は打ちひしがれる母親にただ寄り添うほかなかったのです。

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった」(7:13,14)。

ナインの人々が死の重みを前にして沈黙する中、主イエスお独りだけが「もう泣かなくともよい」と、語りかけられました。主イエスは、母親の姿を見て“憐れに思った”とあります。この「憐れむ」には、ギリシャ語で「スプラングニゾマイ」という単語が使われています。直訳すると、「はらわたが痛む」という意味になります。主イエスは、一人息子を失った母親の姿を見て、文字通り「はらわたが痛む」ほどの苦しさを感じられたのです。それは、死が猛威を振るい、これほどまでに人を傷つけ、打ちのめし、周囲の人々をも悲しませ、沈黙させていたからでありましょう。

過酷な馬小屋で生まれ、憎しみを向けられようとも人々の間を歩み続け、後の十字架の死という苦難の極みを引き受け、それ以上に、死の先には、神が備えられた命があることを御存知である方だからこそ、一人息子の死を前に打ちひしがれる母親へと「もう泣かなくともよい」と、主イエスは語り得たのです。

「イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」(7:14-17)。

主イエスは再び、母親へと一人息子の命を託されました。起き上がった息子を見て、母親はどれほど救われたことでしょうか。人々が神さまを賛美する言葉にも、その衝撃の大きさを聞き取ることができます。それでも、再び命を返された一人息子も、救いが与えられた母親も、神を賛美したナインの人々も、いずれ死を迎えることとなる宿命は変わりません。

しかし、死によって断ち切られた関係を、主イエスが御言葉によって再び結びつけられたことを通して、神の大きな御業が現されたのです。失われた命さえも、主の権威によっては取り戻されること、その主イエスが、“死の先には、これまでのようにこれからも神と共なる命があるのだ”と言われる。その福音が告げられた彼らは、“死の力も到底及ばない神が共におられる”という確信をもって、後の人生を歩んで行ったことでしょう。“生きている間だけでなく、死の先も主が共におられる。その権威に勝るものはない。”人の痛みを御自身の痛みとして引き受け、十字架を背負われ、復活によって新たな命を現してくださった主イエスの御言葉を、私たちは今、聴いているのです。

突然に、また必ず訪れる死は、耐え難い悲しみをもたらします。死によって与えられる別れは大きな衝撃となり、私たちを打ちのめします。死の前で、為すすべもなく泣き崩れることもありますし、その死を受け入れられる形へと変えようと格闘することもありましょう。遠くの誰かも知らない人の死であれば、聞き流すこと、考えないで生きることがあるかもしれませんが、私たちは誰一人漏れようもなく死が待ち受けていますし、人生の道半ばで愛する者を亡くしたならば、“何故”と思わずにはいられないのです。いつの時代も超えることのできない壁として、死は人の世で力を振るい、死の先を見通せないからこそ、人は「生」と「死」を自ら考え、道を探りつつ歩んできました。

しかし、主イエスは、私たちの“命とは、神の愛ゆえに神の霊を吹き込まれたものであり、いずれまた吹き込まれた息は、私たちから息を引き取られるのも神である”と言われます。私たちが生きる前から私たちの命を保っておられ、死の先でも私たちの命を引き受ける神がおられる。神が与える永遠の命とは、人が思う生と死という人生よりも長く、神と共に在り続けるのだというのです。

私たちは死の先を見通すことはできませんが、主イエスは見ておられます。そして神は待っておられます。その時、信仰をもって看取られる者は、再び神ご自身の霊と一つにされ、すでに召された者たちと相見えると約束されているのです。この希望は、私たちに死を乗り越えさせる神の御業です。私たちは、十字架の先で愛する者が新たに生かされていることを信じ、自らもその列に加えられる時がくることを覚えながら、死すらも統べる主の御言葉に聴く者でありたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

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