癒しの確信
- jelcnogata
- Jun 12, 2016
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ルカによる福音書7章1-10節
7:1 イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。 7:2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。 7:3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。 7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。 7:5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 7:6 そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。 7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 7:9 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」 7:10 使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
聖霊降臨後の主日を歩み始めてから、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」(6:17)と語り始められる「平地の説教」より、御言葉を聞いてまいりました。彼らとは弟子たちの事であり、主イエスが御自身に従った者たちへと、“神の御心とは、いかなるものであるのか”を教えていかれた場面です。
信仰の歩みとは、非常に多様性に富んでいます。人はそれぞれ、生まれた時代や環境、出会った人々、歩みの中で取り組んでいく事柄が異なります。何を考え、話し、実感するのかも大きく変わっていくことでしょう。与えられた命を生きる限り、人は自らの進むべき道を選択していくのです。そえゆえに、信仰に立とうとすることへの厳しい選択が、ここにあります。努力し、精一杯生きるからこそ、これまでの経験や体験によって培われた価値観を捨てることへの葛藤と困難が伴いますし、自分が“良い”と考える方向へと、神を引き寄せようとしてしまうからです。それは、神の御心を尊び、主イエスの御後に従おうとする歩みとは正反対であることを知らされます。
主イエスが歩まれた当時も、旧約の時代より語られてきた神の御言葉は書き残されていましたが、真面目に取り組もうと考える人々の思いが、神の御心以上に優先されていました。“聖書の掟を守る者が救われる”という身勝手な常識が作り出され、常に掟を守っているかのように見せつける宗教指導者たちが注目を集め、彼らこそ正しいと見られていたのです。
ただ、病気の者や貧しい人、礼拝の日も家畜の世話などの仕事をしなければならない者など、日常の生活を守ることで精一杯だった人々は、赦しや癒しが手渡されるどころか、“罪人に救いは与えられない”と見捨てられることとなりました。権威ある祭司や律法学者たちに逆らうことは社会のコミュニティから追放されることであり、罪を宣言されたならば誰も批判することはできない。それが当然のように語られることにより、人々も同様に罪人を裁く者となっていたことでしょう。
主イエスは、そのような都合の良い常識を根底から打ち崩していかれた方です。苦しさを背負いながらも、ないがしろにされて放置されていた者たちと出会うために、旅をされました。そして、「平地の説教」では、その御姿に心を打たれた者たちへと、見失われた神の御心を証ししていかれたのです。“敵を大切にし、神の御心を現しなさい。人を裁くことはせず、それらのことはすべて神に任せなさい。”そのように、揺るぎない神を指し示し、“御心を現す道を一緒に歩むよう”と、呼びかけられました。それは、神を自らの価値観に引き寄せ、押し込めようとするのではなく、自らの願いや想いを脇へ置き、神の御心を中心に据えて歩まれた主イエスだからこそ、語ることのできた招きであったことを覚えたいのです。
さて、冒頭で信仰の在り方について触れましたが、本日の御言葉においても、このことに深く繋がる出来事が語られています。
「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです』」(ルカ7:1-5)。
「平地の説教」を語り終えられた後、カファルナウムという村に立ち寄られた主イエスのもとに、ユダヤ人の長老たちがやってきました。彼らは、その地域に住む百人隊長の部下が病気で瀕死の状態にあるため、癒しを願ったのです。
百人隊長とは、ローマから派遣された者であり、本来ユダヤ人の長老たちからすれば敬遠したい対象ですが、「わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」という長老たちの言葉から、いかに百人隊長がユダヤの人々の信仰を尊重していたのかを知らされます。だからこそ、ユダヤの長老たちは百人隊長と瀕死の部下のために、主イエスを訪れたのです。
けれども、心から癒しを願うならば、何故、百人隊長自らが主イエスのもとに頼みに来なかったのでしょうか。続く御言葉に、その理由が記されています。
「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に「行け」と言えば行きますし、他の一人に「来い」と言えば来ます。また部下に「これをしろ」と言えば、そのとおりにします』」(7:6-8)。
百人隊長は、長老たちを通して癒しを願ったにもかかわらず、主イエスが家に着く前に、友人を遣わして「主よ、御足労には及びません」と語りました。それは、“主イエスが、その身体に触れずとも部下を癒すことができる方である”と、権威ゆえの確信を持っていたからにほかなりません。
彼は、百人隊長としての権威をもっていました。その権威によって命じれば、部下はその通りに行動します。“命じればその通りに部下が動く”という「権威」の力、“間違っていたとしても部下は従ってしまう”という責任の重さを、百人隊長は重々承知していたでしょう。「人の権威」でさえ力を持つのであるから、ましてや「神の権威」を授かる主イエスの力とは、どれほどのものであろうか。御言葉によって命じれば、病気という人の手に負えないものさえも従うに違いないと信頼していたことでしょう。
百人隊長は、ユダヤ人の主であるイエスさまのもとへは、まずローマ人の部下を遣いに出すのではなく、実績によって信用を得ていたユダヤ人の長老たちに取り次ぎを頼み、そして、ローマ人でありながら救いを求めることの謙遜を伝えるために友人を遣わしました。おそらくローマ人の友人ではなかったかと思われます。それは、人の権威以上に、神の権威を畏れつつ尊ぶ思いからでありましょう。
人の間での信用は実績によって見えるものですが、見えない神の権威を尊ぶことは信頼と言うべきものです。さらに信仰は、見えない信頼を証しするものです。
「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」(7:9,10)。
百人隊長は、自らの力と自らの持つ権威の限界を知るからこそ、到底計り知ることのできない神に信頼し、限りない神の権威の前で身を低めました。それによって、彼自身の謙遜は深められ、彼の部下は癒されたのです。
人は自らの判断で“良い”と思われる選択をしていきます。けれども、時に、善意が相手に苦痛を与えることもあれば、律法学者たちの追い求めた正しさが人を裁くことにも繋がりうるのです。“神の御心とは、いかなるものであるのか”は、主イエスの御言葉によって示されようとも、その全貌を知ることはできません。すなわち、信仰者であろうとも、自らの判断に立つ時、神の御心から離れる危険があるということです。
百人隊長と同様に、神の果てしない権威に信頼し、私たちは歩みたい。自らの価値観に立ち、人生の荒波に揺り動かされるのではなく、弱さを持つ私たちでありながらも揺るぎない神を土台とし、安心して歩みたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
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