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岩の上に土台を置く

  • jelcnogata
  • Jun 5, 2016
  • 8 min read

ルカによる福音書6章37-49節

◆人を裁くな 6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」 6:39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 6:40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 6:41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」 ◆実によって木を知る 6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 6:44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 6:45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」 ◆家と土台 6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。 6:47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。 6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。 6:49 しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、「敵を愛しなさい」(ルカ6:35)と語られる主の御言葉を聞きました。自らの安心を脅かす敵と出遭ったならば、その相手を大切にすることなど考えられず、すこしでも被害を受けないように、人は自己防衛をするでしょう。長い歴史の中でも、それぞれが豊かになりたいと願い、家族を、仲間を守ろうと絶えず戦いが繰り返されてきたことを思い起こします。

けれども、主イエスは実際に周囲の人々から憎まれ、罵声を浴びせられて、最終的に十字架にかけられることとなろうとも、その御生涯を通して、一人ひとりを大切にされる神の御心を現し続けられたのです。この世に生きる人すべてが「愛されるべき者」として神に形づくられたのであるならば、憎しみの連鎖はどこかで断ち切らなければなりません。敵を愛することによって、主イエス御自身がその役目を担われたことを覚えたいのです。

その通り、主は幾度も罪を重ねてしまう私たちをも決して諦めず、見捨てることもなく、大切にし続けてくださいました。この鼓動が打たれ、新しい朝が与えられるたびに、主の愛を考えずにはいられません。同じように、私たちへと憎しみを向けてくる人々をも忍耐しつつ、共に生きる者へと立ち返るように、主は大切にし続けておられるのです。

主は、私たちへと「敵を愛しなさい」と語られます。それは、“わたしと一緒に一人ひとりを大切にしよう”と呼びかけられる主の招きです。主の御心のゆえに、日々赦され、生かされている私たちだからこそ、主の想いを踏みにじるのではなく、悩みながらも御言葉と向き合い続ける者でありたいのです。

さて、本日の御言葉は、この招きに続いて語られた内容であり、「人を裁くな」、「実によって木を知る」、「家と土台」という3つの小見出しで区切られています。それぞれ異なる内容について語られているようですが、そこには、一貫して“神を土台とすること”への招きが語られていることに気づかされます。

一つ目の「人を裁くな」では、“神を差し置いて、人が人を裁いてはいけない”と教えられています。すべての物が神によって与えられる賜物であるならば、誰もそれを他者から奪うことはできません。それを奪う者が居るならば、神はその者から同じように奪い取られるのだというのです。

人は、固い決意をしても次の日に揺らぐことがあります。人が、自らの不確かな価値観の枠に神を押し込む時、神の本来の御心は見失われてしまうのです。主イエスの時代、御心を誤解した者たちが、神の名を用いて“お前は罪人だ”と裁くことがあったようです。罪人と言われたことで、空腹のまま道端で倒れていても放っておかれる者が居たことでしょう。病気になったとき、家や社会から追い出される者や、羊の世話をし、汚れたまま貧しく暮らしていた羊飼いなど、一番助けが必要な時に、指導者たちによって、神の救いが奪い去られた人々がいました。誰も指摘せず、“指導者によって罪人と宣言される者がいて当たり前”という常識が生れていた。だからこそ、主イエスは、“人が他人を裁くことは間違っている。揺らぎ易い人に根拠を置くのではなく、神に委ねなさい。”と呼びかけられるのです。

二つ目の「実によって木を知る」では、一つのたとえを語っておられます。

「茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(ルカ6:44,45)。

どれほど近い間柄でも、言葉にしなくては伝わらないことが多くありますから、言わない限り思っていることは隠し通すことができます。けれども、ふとした瞬間、心にしまっておくべき思いを言ってしまったり、口先だけで語っていることが露見したりすることで、失敗することがあります。主イエスが語られた通り、人は心の倉から溢れた言葉を話しているのでしょう。

あらゆることを考え、時に言わずに溜め込まれたものがしまわれる私の心からは、決して良いものは溢れ出さないだろうと思います。だからこそ、悪口や憎しみのような醜い感情をしまい込むのではなく、日々語りかけられる主の御言葉によって、心の倉を満たされたいのです。

主イエスは、心の倉を満たすだけでなく、溢れ出して尽きない神の愛を指し示されました。これもまた、私たちの招きに違いありません。

三つ目の「家と土台」でも、主イエスはたとえを語っておられます。

「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」(6:46-49)。

主イエスは、これまでに語られることのなかった神の御心を告げ、人々を御自身の歩まれる道へと招かれました。すなわち、“この世界に御心を現していくために、一緒に歩もう”と、出会う者たちの手を取り、呼びかけられたのです。

本日の「平地の説教」の場面で集まっていたのは、そのような衝撃的な出会いによって、主イエスに従った者だったことでしょう。そこで、主イエスは集まって御言葉を聞く者たちへと、“語られた福音に喜ぼうとも、依然として神の御心から離れたまま、自分自身を中心として歩むならば無意味どころか、なお悪い”と言われます。それは、土台なしで地面に家を建てたばかりに、洪水で流されてしまった人に似ているのだというのです。

人の努力や経験は土台とはならず、家を建てたとしても何かがあればすぐに倒れてしまう。つまり、どれだけ自信を持っていようとも、襲い来る困難を前に、人はなす術がないのです。だからこそ、揺るぎない神を土台とし、基礎を打ち込み、その上に家を建てるように、主イエスは招かれます。“いかなる困難の中でも、神の御心に根差す者は、揺るぎない土台に支えられるのだ”と、言われるのです。

生きることは、いかに難しいことでしょうか。真面目に歩もうとも、困難の方から襲い来ることもあります。その時、自らの限界を知らされることもありますし、揺らぎ易く脆い弱さを持っていることに気づかされます。裏を返せば、この世に生を受けてから神の御許に帰る日まで、いつも支えられ、愛を受ける者として、私たちが形づくられているということです。人は自らを鍛え、努力し、何かを積み上げることで強く立つのではなく、共に生きる隣人と補い合い、神に大切にされてこそ、より力強く歩むことができるのではないでしょうか。3つのテーマを通して語られた主イエスの御言葉は、私たちを問いただし、落ち込ませるようなものではなく、より豊かな歩みへと導く招きであることを覚えたいのです。

主の御言葉は、今、確かに私たちへと語られました。「主よ、主よ」と呼ぼうとも、その舌の根が乾かぬうちに「十字架につけろ、十字架につけろ」(23:21)と叫ぶ者たちがいました。しかし、私たちを大切に想われるがゆえに語られた御言葉を聞き流さないように、そして、主の御心が私たち自身の心を満たしてくださるように願います。神が私たちの土台となる覚悟をしてくださったことを覚え、私たちも神に根差す者でありたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

 
 
 

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