主と共に
ルカによる福音書6章27-36節
6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、父と子と聖霊なる神のそれぞれの御姿を覚え、私たちは三位一体主日を過ごしました。
天地創造から歴史への介入に至るまで、その果てしない流れのすべてを支配しておられる父。この世に幼子として生まれ、痛みを負う者たちと共に歩み、十字架とすべての罪を背負って死なれ、復活されたイエス・キリスト。一人ひとりを包み、御心と御言葉を届けてくださる聖霊。キリスト教会では、このただお独りの神さまの三つの姿を、“三位一体の神さま”と表現いたします。父と子と聖霊という御名を聴くたびに、果てしない創造から始まり、私たちの生活の細かい部分にまで、御自身から近づき、働きかけてくださる主の御業を思い起こすのです。
聖霊に満たされる私たちは、主イエスの御言葉を通して、父の御心を受け取る者として生かされています。そして、主に導かれた者同士の出会いが与えられ、今、互いに支え合う一つの教会とされています。主と信仰の友と強く結ばれる者とされているのです。私たちは、私たちの間で現される主の御業を、真っ先に目撃する者でありたい。これから果たされるであろう約束に力づけられる者として歩んで行きたいのです。
さて、本日与えられた御言葉は、「平地の説教」の中で語られた御言葉です。ルカ福音書では平らな所で語られたため「平地の説教」と呼ばれ、同様の内容が、マタイ福音書では山上で語られたため「山上の説教」と言われます。いずれも、弟子たちへと父の御心を伝えようとされた主イエスの多くの御言葉が記されている箇所です。
聖霊降臨後の主日を迎え、聖壇には緑色の布がかけられました。木々の成長や豊かに茂る様を連想いたします。私たち自身も御言葉に養われ、豊かにされます。ご一緒に、御言葉に聴いてまいりましょう。
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6:27-31)。
キリスト教会内にとどまらず、多くの人に知られている御言葉一つです。非常に分かりやすく父の御心が言い表されていますが、実際に実行に移すことが、とても難しいことを思い知らされます。
この世界には一人として同じ人間は居ませんし、主義主張は様々です。馬が合う者がいれば、相容れない者もいます。その中で、言葉や暴力によって攻撃する者と出会ったならば、身を守らなくてはなりません。誰もが幸せになりたいし、自分自身や大切な人が豊かに生きることを望みます。その想いがぶつかる時、知らない・分からない・理解できない相手が自らを脅かす敵のように感じ、互いに傷つけあうこともあるのです。
もし、憎む、悪口を言う、侮辱する、暴力をふるう、盗むなど、自らを脅かす敵と出会ったならば、どのような行動を取るでしょうか。“耐える、逃げる、反撃する”など「身の守る方法」を考えることはあろうとも、主イエスが呼びかけるような、“赦す、求めるものを与える、自らを差し出すこと”など、「敵を大切にする」選択はできないように思います。
人生はたった一度きりであり、失った命は取り戻せないからこそ、苦い体験のたびに慎重になり、人は身にまとう鎧を厚くしていかなければならない。そのように、命が自らのものであると考える時、人は敵を退けるための自己防衛をせざるをえないのです。
そのように、豊かになりたいと願いつつも、互いに比べ合い、時に傷つけ合う世界へと、主イエスは神の御心がいかなるものであるのかを告げられました。
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである」(6:32-34)。
人は、お腹が空けば食べ、喉が渇いたら飲み、疲れたら眠り、ストレスが溜まれば気分転換をします。近年、「自分自身が嫌いだ」と語る人は多いですが、そのように言う人も含め、誰もが無意識の内に自分自身の要求を満たしています。また、愛する者に対しても、その人を大切に想うがゆえに、必要としている物を手渡していきます。
けれども、“御言葉を聞きながらも神を無視し、背き続ける者も、見返りを目当てに同じ事をしているのだ”と、主イエスは言われます。では、神の御心を知らずして行えないこととは一体何だというのでしょうか。
「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(6:31-36)。
主イエスの歩みを思い起こします。人々から憎まれる徴税人を弟子とした時、彼らと食事の席を囲む時には、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と嘲られる。悪霊に取りつかれた者を癒された時には、人々から悪魔の頭と噂されてしまう。最終的に、すべての人の罪を赦す贖いの小羊として十字架を背負われた時には、人々から罵倒され、唾を吐きかけられました。個々人との出会いはあろうとも、得たものは見返りではなく、痛みや苦しみでした。ただ一点、“神より報いを受ける時が来る”ということを待ち望み、歩み抜いた主イエスの御姿が、ここにあるのです。
私たちの願いや想いだけで考えるならば、敵を愛することや憎しみを向けてくる者を大切にする必要はありません。悪口を言う者や侮辱してくる者に祈ることなど考えられませんし、暴力を前に左右の頬を向けるほど愚かなことはないと感じます。上着を盗られてなお、最後の下着1枚を差し出すことなどもってのほかです。
しかし、「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」神の御心と、実際に、その御心に従って歩み抜かれた主イエスの御姿を、私たちは聴いているのです。私たちの内から生まれることのない選択が、今、私たちの前に置かれている。たとえ、実行に移すことは難しくとも、いつも私たちの内に“敵をも大切にしなければならない”という想いが起こされていくこととなるのです。
主の優しさと深い憐みは、私たちと共に、すべての人に向けられています。誰もが自分自身と愛する者のみを大切にすることができているのであれば、私たちは一歩を踏み出し、自らの好き嫌いに囚われず、人を大切に想われる主の御心を実現していきたい。この命が預けられ、今も主に養われていることを信じ、まとう鎧を脱ぎ捨て、主と共に新たに歩み出したいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン