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ユダの裏切り

ヨハネによる福音書13章31-35節

13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。 13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。 13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、主イエスが御自身と弟子たちとの関係を、「羊と羊飼い」の深い絆にたとえて語られた御言葉を聴きました。

非常に近眼である羊は、荒野で生きる上で穴を避けることや、えさ場を見つけること、野獣や盗賊から身を守ることも難しい性質です。それゆえ、羊飼いの存在が必要なのです。羊飼いは、朝になれば安全な道を通って新鮮な草が生える場所へと羊を導き、夜には火を焚いて寝ずの番をする。杖で野獣を追い払い、まさしく命がけで羊たちを守ります。だからこそ、羊たちは自らを養い導く羊飼いの声をしっかりと聴き分け、ついていくのです。

主イエスは、御言葉に聴き従う者を「わたしの羊」と呼ばれました。偉いからでも、能力に秀でているからでもなく、主イエスの御言葉を通して告げられた、神の御心を大切に受け取ろうとする姿勢。その一点で、主は「わたしの羊」とされるのです。主イエスは、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われました。その御言葉通り、主イエスは良い羊飼いとして私たちの罪をすべて背負い、ヨハネ福音書によるところの十字架という苦い杯を飲まれたのです。私たちが御言葉に聴き従う前に、既に私たちを赦し、御自身の羊として呼び集めてくださった主の愛を考えずにはいられません。主の方から近づき、受け入れてくださっていることを知らされた私たちは、今、御言葉を語られています。良い羊飼いとして私たちを導くと約束された主の声を、しっかり聴き分ける者でありたいのです。

本日与えられた御言葉には、最後の晩餐での出来事が記されていました。

「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる』」(13:31,32)。

人々によって捕らえられる直前の夜、主イエスが弟子たちと共に過越しの食卓を囲みました。この食事会が、最後の晩餐と呼ばれます。この時、主イエスは伝えるべき神の御心を、弟子たちへと伝えていかれました。後に起こる出来事を、すべてご存知であったことを考えますと、ここで語られた御言葉とは、主イエスの遺言となるものです。

17章まで主イエスの最期の御言葉が続きますが、本日の13章の時点(最後の晩餐の途中)で、イスカリオテのユダが席を立ち、出て行きました。なぜ出て行ったのか。それは、主イエスを殺害しようと企てる者たちに引き渡すためです。他の福音書には、主イエスを引き渡す報酬が銀貨30枚であったと記されています(マタイ26:14-16)。

ユダは、主イエス一行の会計係を任されていました。それは、弟子たちの中でも、特に信頼を置かれていた証拠でしょう。そのような人物が、決して高額とは言えない銀貨30枚のために、主イエスを引き渡すでしょうか。もし、血も涙もない男であれば、主イエスの死に直面して、手に入れた銀貨を神殿に投げ返すこともなかったことでしょう。

また、ユダが出て行った直後に語られた主イエスの御言葉では、「今や、人の子は栄光を受けた」とあります。ユダが出て行ったことで、神の御心を果たす準備が整えられた、十字架への道筋が定まったと語っておられるようです。

そして、後に捕らえに来た人々へと主イエスを引き渡すためのしるしとして親愛の証しである接吻をしたユダの行動を、主イエスが拒否することなく受け入れておられることも、ユダをただの「裏切り者」として切り捨てることができない理由であります。彼には、「引き渡す」という重要な役目が与えられていたのではないのかと、考えずにはいられません。

いずれにしても、ユダが出て行ったことをキッカケとして、主イエスの十字架への歩みがもはや避けがたいものとして、目前に迫ることとなりました。旅の終わりは近く、神の御心が確実に果たされていく。それゆえ、十字架と復活の出来事が起こる前のこの時点で、御心の先取りとして“今、神の御業が実現した”と、主イエスは弟子たちに語っておられるのです。

「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」(13:33)。

“神の御心が果たされる時”とは、“主イエスが十字架の上で息を引き取られる時”です。十字架の上で死に、よみがえり、天に昇られるという道筋は、主イエスただお独りに与えられた道であり、ついていくことのできない弟子たちは、それぞれ自らの足で立ち、生きていかなくてはならないのです。それゆえ、主イエスは、これから残され、混乱しつつもこの世界を歩むこととなる弟子たちのために、たった一つの掟を与えられました。

「あなたがたに新しい掟を与える。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(13:34,35)。

主の弟子と、どのような者たちが呼ばれるのでしょうか。主イエスと一緒に居た時間の長い者か。旅に伴い、苦楽を共にした者か。誰よりも優れており、主イエスを支えた者か。いずれでもないことでしょう。主イエスによって弟子たちが大切にされたように、“向き合う人を大切にする者が、御自身の弟子であると知られるようになる”と、主イエスは語られています。すなわち、日々祈りつつ歩まれた主イエスと共に、神の御心を大切にし、歩んで行く者こそ弟子であるのだというのです。

神がそのように望んでおられるという一点において、互いに愛し合う時、人は主の弟子であることを証しする。互いの間に、主に在る愛という断ち切れることのない繋がりを育み、分かち合うならば、それはいかに遠く離れようとも、主と結ばれていくのです。“この世での別れに悲しむのではなく、愛という絆で固く結ばれていることを覚えなさい”と、弟子たちを励まし、これからの道で支えとなる御言葉を主イエスは手渡されるのです。

ユダが出て行くというハプニングがあっても、いつもと同じように食事を共にしたであろう弟子たちには、主イエスの受難の初めを告げる言葉の意味は全く分かりません。後には十字架の前から逃げ去った、そのような彼らの前に、復活の主は来られたのです。自らの弱さと向き合い、打ちひしがれ、それでもなお赦されていった弟子たちだからこそ、しっかりとこの御言葉を噛み締めて行くこととなります。

主イエスの御言葉は、時代を超え、今、私たちへと届けられています。主イエスを通して語られた神の御心は、2000年の時を経ても色あせることなく、私たちの前に輝き続けています。“主イエスと共に、神の御心を大切にし、歩んで行く者こそ弟子”であるのだから、集い合い、分かち合う私たちも、主に弟子として迎えられている者であると確信します。中には、愛するばかりの者もいれば、愛されるばかりの者もいます。しかし、互いの存在があってこそ、主イエスの御言葉は果たされるのです。一人ひとりへと、その人にしかできない大切な役割が主から与えられていることを覚えつつ、その声に聴いていきたい。耐え難い荒波にさらされることがあろうとも、私たちの分として与えられているこの命、この人生を、また、主の弟子とされている恵みを噛み締めて生きたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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