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再会

ルカによる福音書24章36-43節

24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、二人の弟子がエルサレムから10kmほど離れた村エマオへと向かっていたところ、復活の主イエスが現れられ、御自身の正体に気づかぬ彼らへと御言葉を語りつつ、その歩みに伴われた出来事についての御言葉を聴きました。

少し振り返りますが、主イエスはユダヤ人にとっての最大の祭りである「過越祭」の期間に、息を引き取られました。痛みを負う多くの人々を癒していかれた主イエスでしたが、「神を冒涜している」と語る宗教指導者たちの訴えにより、無実の罪で十字架にかけられたのです。

その際、町の人々から“お前はあいつの仲間だろう”と問い詰められた一番弟子のペトロが、三度“主を知らない”と語ってまでも身分を隠そうとしたことが、聖書には記されています。このように、主イエスの仲間であったがゆえに、弟子たちは非常に緊迫した状況下に置かれていました。周囲の人々に主イエスと共に旅をしていたと知れれば、捕らえられてどのような処分がくだされるのか分からず、命の保障すらありませんでした。だからこそ、弟子たちは部屋にこもり、鍵を閉め、人々の目に触れぬよう身を潜めるほかなかったのでしょう。

エルサレムからエマオへと歩いていく二人の弟子たちは、そのような緊迫した状況から逃げようとしていたのでしょうか。出発した理由は定かではありませんが、彼らは旅路の途中で、同伴者から語られた御言葉に心を燃やされ、食事の際に裂かれたパンによって目が開かれ、その同伴者が主イエスであることに気づくこととなりました。そして、気づいた時には、すでに主イエスはおられなかったのだというのです。復活された主との出会いによって、日が暮れていようとも二人の弟子たちは道を引き返し、エルサレムに居る他の弟子たちのもとへ向かいました。合流したとき、二人の弟子へと語られたのは「復活の主イエスと出会った」という他の人の証言でした。人の証しを聴くことにより、彼らもまた“自分と主イエスとの出会いもまた現実の出来事だった”ということを確かにされていったのです。主の復活についての証しが集まることで、十字架の前から逃げ去った弟子たちは、再び一つに繋がれていったことを知らされます。

しかしながら、主イエスの復活についての証しを聴こうとも、弟子たちの多くは、依然として現状に怯えたままでした。なぜならば、身の危険は変わらず閉じた扉の向こうに潜んでいたからです。また、弟子たち一人ひとりの内に、“十字架にかけられた主イエスの御前から逃げ去った”という、拭い去れない後悔があったことでしょう。主イエスと皆の前で、“一生を捧げて従っていく”という覚悟を表明していたにもかかわらず、一目散に逃げ出してしまったことの負い目とは、どれほど重く、苦しかったことでしょうか。裏切ってしまった相手が死んでしまったならば、もはや伝える術はなく、生きていく限り背負い続けなければならないのです。扉の外に行けば、捕らえようとする者がおり、扉の内側には大切な主イエスを裏切ってしまった弱い自分がいる。大きな不安の中で、主の復活をなかなか信じることのできなかった弟子たちの只中に、主イエスは来られたのです。

「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった」(24:36-40)。

かたく閉じられていたはずの扉。しかし、主イエスは彼らの真ん中に立たれたのだというのです。裏切ったまま別れ、今後会うことのできないと思っていた方が目の前に居られる。この衝撃はどれほどのものだったのでしょうか。ただ、そこにあったのは、決して「喜び」という感情だけではなかったはずです。死が終わりであるならば、一生償えない後悔を背負うこととなります。しかし、裏切った人が目の前に現れたとしても、取り返しのつかない過ちを犯してしまった罪悪感が消えることなく残り続けるのです。“何かをしでかしてしまった、もしくは、しなければならなかったのに何もしなかった過去”は記憶から薄れていくことはあろうとも、決して消すことはできないからです。復活された主イエスとの衝撃的な対面によって、ある人は喜び、ある人は自責感に目を伏せ、ある人は困惑したことでしょう。

しかし、その真ん中に主は来られました。失望と絶望の只中で身を寄せ合う弱き群れの真ん中に主は立たれたのです。そして、弟子たちへと言われました。「あなたがたに平和があるように」と。呪いの言葉でも叱責の言葉でもなく、打ちひしがれた弟子たちの祝福を願う御言葉を語られたのです。

ユダヤ教指導者の保身と、場の雰囲気に飲まれる人々の叫びによって、死に追いやられていく主イエスの御前から逃げ出した。彼らが弱さより起こした行動は、決して消えることのない重荷であり、死ですべてが終わるならば、一生赦されぬまま残ったであろう痛みでした。その決して赦されるはずのない自分を、主イエスは真っ先に祝福してくださった。主の方から近づき、担うはずの重荷を外してくださったのです。彼らにとって、復活の主イエスとの再会、そして語られた祝福の御言葉とは、どれほど大きな癒しと慰めとなったことでしょうか。少なくとも、弟子たちにとっては新しく生まれ変わり、歩み出すきっかけとなったことは間違いありません。なぜなら、歩む力を失ったままであれば、今の私たちが聖書を手にすることは無かったからです。

堅く閉じられた扉の真ん中に主は立たれました。その主と出会い祝福された弟子たちは、今度は自らの手で扉を開けて歩み出すのです。

この世界には、非常に多くの人間が生き、それぞれの生活を守っています。社会とは、人が集まって形成されるものですから、その中で誰とも関わらず生きることはできません。そして、人の抱える悩みの多くは、他者がいるからこそ生じるものでありましょう。

気の遠くなるほどの経験を積み、自らを磨き上げていこうとも、たった一つの行動や言葉によって、人を傷つけることがあります。また、能力や実力などに自信が持てず、自らを傷つけることもあるかもしれません。いかに細心の注意をはらおうとも、失敗は避け難いのです。それゆえ、後悔し、怯え、身を隠す弟子たちの姿に親しみを覚えます。そして、弟子たちを責めるためではなく、彼らが新たな一歩を踏み出すことができるように、祝福を語るべく現れられた主イエスの姿に、深い愛を見出すことができるのです。

私たちは、今、主によって深い愛を手渡されるべき者として、命を吹き入れられ、生かされています。私たちの弱さを御存知の上で、主は新たな朝を、この一日を与えてくださるのです。この真実こそが、赦されていることの証しであることを覚えたいのです。

弟子たちと同様に、私たちもまた復活の主と出会い、歩み始めた者であります。決して力強く歩めているわけではなく、時に揺らぎ、立ち止まり、打ちひしがれることがありますが、困難と出会う度、聖書の御言葉や、日々の出会いによって支えられ、再び歩み出す力が与えられてきたことを思い起こします。実際に目に見えず、触れることができずとも、与えられた一つひとつが主の恵みであると信じて、感謝し、賛美しつつ再び立ち上がってきたのです。ここに、確かに復活された主イエスを感じるのです。

主は私たちの只中に立ち、言われます。「あなたがたに平和があるように」と。御言葉に支えられてきた私たちだからこそ、次は御言葉を伝える者として歩み始めたい。教会の扉は、新しい人を迎えるため、また私たちが御言葉を伝えるために開いていたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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