責任
ルカによる福音書23章1-25節
◆ピラトから尋問される 23:1 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。 23:2 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」 23:3 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。 23:4 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。 23:5 しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。 ◆ヘロデから尋問される 23:6 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、 23:7 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。 23:8 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。 23:9 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。 23:10 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。 23:11 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。 23:12 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。 ◆死刑の判決を受ける 23:13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 23:14 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。 23:15 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 23:16 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 23:18 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。 23:19 このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 23:20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。 23:21 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。 23:22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 23:23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 23:24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。 23:25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
十字架への道のりにおいて、主イエスが引き受けられたあらゆる苦難や痛みを追体験していく期間である「四旬節」。今年は、2月14日より始まりました。その中で、本日の受難主日は復活祭の直前の日曜日に位置します。この日には、歩みの終着点で十字架にかけられ、耐え難い痛みの中で息を引き取られる主イエスの歩みを辿ります。
“心の支えとなる御言葉だけを聞きたい。わざわざ痛ましい出来事を思い返す必要はないだろう”と語る方もおられます。しかし、キリスト者の信仰の出発点である復活とは、十字架上での主イエスの死を通らなければ果たされることのなかった御業です。そして、主イエスの死の前でのみ、人は互いに優劣をつけることなく、等しく大切にされる者として、神の御前に立つことができるのです。
ご一緒に御言葉に聴いてまいりましょう。
「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。『この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました』」(ルカ23:1,2)。
これまでの旅において、主イエスが祭司長や律法学者たちと論争する場面がありましたが、少し前の22章には、最後の晩餐の後に人々に捕らえられ、ついに最高法院の前に引き出されることとなった主イエスの姿が記されています。最高法院(サンヘドリン)とは、ローマ帝国の監視下にあるユダヤ人の指導者たちによって構成された最高裁判権を持つ組織です。彼らの裁判で“お前がメシアか”と問われた主イエスは、「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」(22:67-69)と答え、有罪判決を受けることとなったのです。ローマによって死刑を禁止されていたこともあり、最高法院はローマの監督者ピラトへと、主イエスの身柄を引き渡しました。
ピラトは、神殿で流血騒ぎを起こしたり、サマリア人を不当に殺害したりしたことで、残虐な人物として知られています。全会衆は、次のように訴えました。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と。宗教的な争いに対する関心が薄かったと言われるピラトへと、政治的な問題であることを強調し、判決を迫ったのです。問答の末、ピラトは主イエスに何の罪も見出せなかったため、主イエスがガリラヤ出身であることを知ると、当時ユダヤ人の王だったヘロデ(・アンティパス)へと、身柄を引き渡しました。
「彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」(23:8)。
時の王ヘロデの期待とは異なり、主イエスは問いに答えず、一つの御業も現されませんでした。ただ、人々から信頼されていた洗礼者ヨハネを殺害した今、目の前にいた主イエスが脅威になるとは思わなかったのでしょう。そこで、ヘロデと彼の兵士たちは、主イエスを嘲りつつ派手な服を着せ、再びピラトのもとに送り帰したのです。
この時の出来事について、聖書は次のように記しています。「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである」(23:12)と。ピラトから判断を委ねられることで、ヘロデは王としての立場を尊重され、ピラトもまた、ヘロデから最終判断を託されることで、監督者としての立場を尊重されたと感じ、互いにいい印象を持ったのでしょう。また、世の中では“共通の敵を作ると仲良くなる”と言われますから、主イエスの存在によって、二人の距離は縮まったのです。
さて、ピラトとヘロデの意見は一致して、主イエスに対して“何の罪も見出せない”というものでした。そこで、ピラトは送り帰された主イエスの裁判へと詰め寄る人々へと、“鞭で打った後、イエスを釈放しよう”と提案しました。鞭打ちは、十字架にかける前の死刑者に行っていました。そこまですれば、人々の気持ちも落ち着くだろうと考えていたのでしょう。
「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そ
こで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた」(23:23-25)。
監督者として、ユダヤ人の指導者たちとの関係が悪くなったり、暴動が起きることは避けるべき事態でした。ついに、人々に屈したピラトは彼らの要求を入れる判決を下したのです。当時、過越祭の度に罪人を一人釈放する習慣がありましたが、人々は暴動と殺人で投獄されていたバラバを釈放することを選びました。こうして、主イエスは鞭打たれ、重い十字架を背負わされることとなったのです。
何故、主イエスが十字架を背負わなければならなかったのか。それは、誰か一人の責任ではありません。「十字架へつけろ!」と叫んだ一人ひとりの欲深さや弱さが積み重なり、起こった出来事であることを覚えたいのです。
律法学者たちは、主イエスの御言葉と御業に関心を向けず、掟を守らない姿のみを挙げて“神を冒涜している”と語り、祭司たちは、形だけの儀式と神殿での商売を批判され、主イエスを敵対視しました。民衆は、噂を聞いて興味を持ち、一時は御言葉に心打たれようとも、周囲の人々の声を聞き、一緒になって「十字架につけろ!」と叫び、旅を共にしたはずの弟子たちは捕らえられることを恐れて逃げ出しました。王や監督者は、責任を逃れ、罪がないことを分かっていながら、主イエスの命を利用して、自らの立場を守りました。その場に集っていた一人ひとりが、少しずつ主イエスを十字架へと押しやっていったことを知らされます。
しかし、そのように御自身の命に対しての責任をなすりつけ合い、自らの立場を守り、願望のままに振る舞う人々を前に、主イエスは沈黙し、彼らの想いを背負っていかれました。神より離れ、赦され得ない態度を取る一人ひとりが、再び神の御手に取り戻されるために、御自身のものでないすべての罪と、激しい痛みとをその一身に引き受けられたのです。誰にも感謝もされず、罵声と暴力が浴びせられる中、神の御旨を果たし、天を喜びに満たすために歩まれる主イエスの姿を、私たちは覚えたいのです。
現代にキリストが来られたら、私たちは気づくことができるのでしょうか。死刑に追いやることはなくとも、私ならば、“主イエスを真似て、神を冒涜する不審者が現れた”と思い、関わりを避け、それがキリストであることに気づかないのではないかと思います。そして、その人物の賛同者の中で、一人でも問題を起こしたならば、批判する側にまわるに違いありません。「十字架につけろ!」と叫んだ者たちと変わらない罪が、私の内にあることを知らされます。
何故、主イエスの苦難の歩みを、私たちが辿る必要があるのか。それは、“主イエスが私たちのために十字架を背負われた”という確かな繋がりが、主と私たちの間にあるからです。そして、主の受難の姿を通して、痛みのどん底に立たれた主だからこそ、私たちがどのような困難な状況に置かれたとしても、伴えない場所はないのだということを知らされます。その姿に圧倒されつつ、復活までの日々を過ごしていきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン