失われた息子たちの物語
ルカによる福音書15章11-32節
◆「放蕩息子」のたとえ 15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日与えられた御言葉は、教会でよく知られる「放蕩息子」の物語です。十字架への道のりで苦しみを受けられた主イエスの歩みを思い起こしている私たちへと、父と二人の息子の物語を通して、神の愛とはどのようなものであるのかを、主イエスは教えておられます。ご一緒に福音から聴いてまいりましょう。
人は、失敗を避けられません。良かれと思って行ったこと、自分自身が正しいと思って行ったこと、また、欲に負けて行ってしまったことなど、その結果、自分自身で処理できる問題であれば良いですが、もし大切な人に深い傷を負わせてしまったならば・・・、これほど恐ろしいことはありません。肉体的な傷はもちろん、心に傷をつけてしまった場合、痛みはなくなったとしてもその傷は残り続けます。一度崩れてしまった関係が修復されることは難しいことを、私たちは知っています。「そんなつもりはなかった。こんなはずじゃなかった。あの時はおかしかった」。そのような言葉は空しく、喉の奥に引っかかったまま、飲み込むほかありません。しかしながら、気をつけていても、生きている限り誰もがそのような状況に陥ってしまうのです。
「つまずきは避けられない」(ルカ17:1)との主イエスの御言葉を思い起こします。その意味でも、主イエスが語る「放蕩息子」の物語は、実感を伴って響くのです。
主イエスのたとえ話に登場した「父」と「その二人の息子」。父は主なる神であり、息子とは私たち人間のことを指しています。
ある時、二人の息子の内、弟が父へと財産の分け前をねだりました。そこで、父は兄と弟へと半分ずつ財産を手渡します。弟はすべての財産をお金に代えて遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしました。ところが、その地方に飢饉が来たとき、彼は誰にも助けてもらえなくなったのです。お金によって繋がった関係ほど脆いものはありません。ついには、人々が嫌がる豚の世話をしなければならないほど、生活は苦しくなっていきました。
すべての希望の光が消え失せそうになり、豚の餌にさえ手を伸ばそうとしたそのとき、弟は父の豊かさを思い出しました。これまで育まれてきたこと。自己中心的な願いにもかかわらず、自分の分の財産を惜しむことなく手渡してくれたこと。今でも、多くの人を雇うほどの財産があること。すべてを失ってはじめて、これまでどれほど自分が恵まれていたのかを弟は知り、後ろめたさを持ちつつも、再び父のもとに向かう決心をしたのです。生きていくために残された道は他にありませんでした。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(15:18-19)。そう語るように、弟は、父から拒否される覚悟をしつつ、重い足取りで家に向かいました。
しかし、弟の予想とは異なり、まだ遠く離れていたにもかかわらず、父は走り寄り、言葉を発する間もなく、彼を強く抱きしめました。叱責するどころか跡取りの儀式の際にするように手厚く迎え、その帰りを心から喜んだのです。大切にされてきたことを知らぬばかりか、父の想いを散々踏みにじってきた弟は、赦されることだけにとどまらず、再び息子として生きる道に迎えられることとなりました。「赦してください」という言葉を飲み込み、痛む心で「雇い人の一人にしてください」と語った息子にとって、“息子を心から愛している”という一点において迎えた父の愛に、どれほど慰められたことでしょうか。父の姿を通して、私たちへと注がれる父なる神の一つの愛の形を知らされます。
けれども、放蕩の限りを尽くした弟を父が盛大に迎え入れたことは、兄にとって耐え難いものでした。怒って家に戻ろうとしない彼を迎えに出た父へと、言いました。
「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(ルカ15:29,30)。
“真面目に仕えてきた自分に対して、何もしてくれなかった”と兄は父に訴えました。共に家に住もうとも、兄の心は父から離れ、その愛は届いていなかったようです。放蕩の限りを尽くして、都合が悪くなった時に、父を最後の頼みの綱とした弟と同様に、共に居たはずの兄もまた、父にとっては失われた息子であったのです。
「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』」(15:31,32)。
兄は父と共にあり、弟に分けられたもの以外は、すべて彼に与えられていました。気づかずとも日々兄へと愛は注がれており、必要ならばすべての物を使うこともできたことでしょう。共に生きて働き、深く父と結ばれている兄だからこそ、失われていた弟が取り戻された喜びをも“共に分かち合おう”と、父は招くのです。この招きもまた、主の愛の形であることを覚えたいのです。この後について詳しく語られませんが、父の愛をつぶさに見、失われていた兄もまた、取り戻されていったに違いありません。
「放蕩息子」のたとえ話は、失われた息子たちが、父の愛ゆえに取り戻されていく物語です。自己中心的に生き、主を忘れていた者を赦し、駆け寄って抱きしめて迎えてくださる方。また、主に従おうと努力しつつも満たされずに離れそうになる者を、共に生きる道へと連れ戻してくださる方。それが私たちの主なのです。
よく「人の価値はdoingではなくbeingだ」と言われます。“何かができるから”ではなく、私たちの“存在そのものに価値がある”という意味です。主は、私たちの存在そのものを喜び、大切にしてくださいます。だからこそ、負い目や罪をかかえている私たちを見つけ、走り寄ってその御手に抱きとめてくださるのです。それは、決して私たちの側の努力によるものではないのです。
放蕩息子が帰ってきたことが父自身の大きな喜びだったように、主に見出され、救いを与えられた私たちの喜び以上の大きな喜びが、私たちを見つけ出された主御自身にあるのです。どう生きているのか、何ができるのかということにかかわらず、私たちが主に生かされる者としてここに在るとき、天は喜びに満たされます。たとえ、これより先、歳を重ねることにより、あるいは思いがけず病を負うことにより、少しずつ出来ることが少なくなって行くとしても、主の喜びは決して色あせることはありません。
父の愛に触れた二人の息子たちは、この後、どのように歩んだのでしょうか。また、主と出会った私たちの人生は、どのように変えられていくのでしょうか。実感した愛は、決して消えることはなく、私たちの人生に輝き続けるのです。
四旬節は主の苦しみを思い起こすときです。しかし、その苦しみの奥に示された愛を私たちは知っています。イースターへの歩みの中で、私たちの存在そのものを喜ばれる主の愛に、身をゆだねたいと願います。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン