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悔い改める

ルカによる福音書13章1-9節 13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、主イエスが3度目の「受難予告」、十字架の死と復活という御自身が歩まれる道について語られた出来事を聞きました。それでも、共に旅をしてきた弟子たちは、幾度も聞いたはずの受難予告について、何一つ理解できなかったようです。「十二人はこれらのことが何も分からなかった」(ルカ18:34)と書いてある通りです。その後に、目の見えない男性を癒された主イエスの御業を目撃しようとも、弟子たちを含めた民衆は、ただ歓声をあげ、神を賛美するだけでした。誰一人として主イエスを通して語られた神の御心を聴こうとする者はなく、主イエスお独りだけが十字架へと続く道を見据えておられるのです。

私たちは、すでにこの後の結末について、聖書によって告げられており、主イエスの歩みにより、今、いかに大切にされ、命を育まれているのかを告げられています。しかしながら、喜びの声をあげて御言葉をかき消すならば、いずれ与えられる恵みを見失う時がまいりましょう。私たち自身が神を賛美すること以上に、主イエスの御言葉、そこに現される御心に聴くことに信仰者の幸いがあるのです。

四旬節を歩んでいる私たちに、今年与えられているテーマは「悔い改め」です。聖書の語る「悔い改め」とは、「方向転換」を指します。自らに関心を向けるのではなく、主に向き直って生きる。このことこそ、主イエスの招かれる道、信仰者が真に豊かにされる歩みに違いありません。これまで私たちを養い続けてくださった神の御心が、これからの歩みの中でも、絶えず手渡されていきます。今、私たちへと語られた御言葉に聴いてまいりましょう。

「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」(ルカ13:1)。

ルカ福音書10章より本日の御言葉に至るまで、主イエスのたとえ話を含めた多くの御言葉が記されています。マルタとマリアの住む村ベタニアに赴かれた主イエスは、噂を聞きつけて集まった人々へ、その後、ファリサイ派の人々によって食事に招かれた際にも、御言葉を語って行かれました。人々に語りかけられている最中でしょうか。「ちょうどその時」一つの事件が起こりました。

人々は、サドカイ派と呼ばれる祭司たちによって、“年に一度は神殿に巡礼するように”と言われていましたし、聖書によれば、神に赦しや清めを願う際には、いけにえの動物を献げるように記されていました。後の時代になるほど、動物ではなく、お金を献げることが中心となっていったようですが、主イエスの時代にも神殿で動物を献げる儀式が行われていたようです。ですから、人々にとって神殿は神聖な場所でした。

何度も申しますが、この頃、ガリラヤ地方に住むユダヤ人たちは王を持っていたものの、ローマ帝国の監視下に置かれており、制限される中での自由が認められていたにすぎません。ポンティオ・ピラトという人物が、ガリラヤ地方を監督するようローマ帝国から任命されていました。この「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とは、彼が、神聖な場である神殿において人を殺したことが表されているのです。

「イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる』」(13:2-5)。

ルカ福音書11章の終わりには、主イエスがファリサイ派の人々から食事に招かれたことが記されていましたが、厳しい御言葉を語る主イエスに対して、彼らは敵意を向けていくこととなります。当時の食事会は、一般公開されていたため、そこに人々が集まってきたのでしょう。聖書に記される掟を大切にするファリサイ派と、儀式を大切にするサドカイ派の2つの派閥は、重要視する場所が異なることで緊張関係にありました。想像ではありますが、ピラトの行いを聞いた者の中にいたファリサイ派の内、誰かが“サドカイ派が神の御心と異なる歩みをし続ける罪のゆえに、彼らが大切にする神殿で殺人が起こったのだ”と、敵意を向けた発言をしたのでしょうか。

主イエスはピラトの行いを聞き、もう一つ、この頃にシロアムという池のある場所で塔が倒れて18人が犠牲となった事件を挙げて言われました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(13:2,3)と。なぜ、このような悲惨な出来事が起こるのか、また、神さまの審きとは何であるのかを、人は断言することができないのです。

そして、続けて主イエスはたとえ話を語られました。

「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」(13:6-9)。

3年間も実のならないいちじくの木にがっかりし、切り倒すように命じるぶどう園の主人と、あと一年だけ待ってほしいと願う園丁の姿が描かれています。土を耕し、害虫を駆除し、肥料と水を与え、毎日観察し、必要な世話をしても、いつまでたっても実らないならば、いちじくの木が切り倒されても仕方がありません。他の植物を植えた方が、ぶどう園としても利益がでます。主イエスは、このたとえ話を通して、神と人との間にある緊張を伝えようとされるのです。

神は必要な糧を備え、日々私たちを養ってくださいます。そうであるにも関わらず、神の御心を知りつつ無視し、自らの思うままに生活を続けるのであれば、ぶどう園の実らないいちじくの木のように、切り倒されても仕方がないと言うほかありません。神の御心のゆえに与えられている恵みは、決して当たり前ではなく、特別なことなのです。審きとは神の領分であり、人がそれを語ることなどできません。“神の御心を完全に知り得ない以上、一人ひとりが傲慢さを捨て、いつ切り倒されるか分からないという緊張を持ち、今、御言葉に聴いていく必要があるのだ”と、主イエスは呼びかけられるのです。

しかし、神はぶどう園の主人とは異なり、実らない者を切り倒されるのではなく、引き受けられる道を選ばれました。愛する御子の命と引き換えに、これからも養い続けることを示してくださったのです。十字架の出来事とは、簡単に済まされるものではありませんでした。真に神に従い、御心を現し続けた主イエスでさえ、御自身に備えられた耐え難い道を前に、「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22:44)と記されています。

神の御心のゆえに、今、私たちは審きの前ではなく、その圧倒的な愛の前に立たされています。どれだけ遠くに逃げ去ろうとも、主の愛は私たちを捕らえ、必要な糧と賜物とが与えられ続けるのです。風が世界中に吹くように、聖霊なる神もまた、この世のどこにあっても私たちを捕らえて離さない方だからです。そして、愛の深さを知らされていくごとに、背き続けることの苦しさを私たちは感じずにはいられないのです。

「悔い改め」とは、ギリシャ語で「メタノイア」と言います。偶然ですが、日本語で反対から読むと「アイノタメ」となります。私たちは、主によって与えられた「アイノタメ」、主の愛ゆえに方向転換し、自らの欲の声ではなく、主の御心に聴く者とされたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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