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幸いである

ルカによる福音書6章17-26節

6:17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 6:18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 6:19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。 6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。 6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。 6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。 6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。 6:25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。 6:26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、主イエスが最初の弟子を招かれた際の出来事について、御言葉より語られました。

主イエスは、押し寄せる群衆に御言葉を語るため、一晩漁をして一匹の魚もとれず、網の手入れをしていた漁師シモンへと、湖に舟を漕ぎ出すように頼まれました。御言葉を語り終えられた主イエスは、今度はシモンへと“さらに漕ぎ出して、網を降ろしなさい”と命じられたのです。噂を聞き、自らも主イエスの御業を見ていたであろうシモン・ペトロは、何もとれないと思いつつも、御言葉に従って網を降ろしました。すると、たくさんの魚がかかり、二そうの舟が沈みそうになったのだというのです。

長い間、漁師をしていたシモンは、主イエスが現された御業に驚き、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)と、ひれ伏して言いました。主イエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(5:10)と語り、自らを罪人と告白したシモン・ペトロを弟子とされたのです。

罪の負い目によって身を引こうとするシモンをなお招かれ、御自身が罪人の一人として数えられようとも、漁師たちを弟子とされる主イエスの姿に、一人ひとりを大切にされる神の愛が映し出されます。

同様に、私たちもまた、主イエスの現された圧倒的な神の愛から逃れることはできません。困難の中からでさえも私たちを見つけ出し、痛みを共に担われる主を信じ、語られる御言葉を受け取る者とされたい。示される道に心を向けたいのです。

さて、先ほどお読みしました御言葉は、「平地の説教」として親しまれる聖句です。同様の内容がマタイ福音書では、山の上で語られたため「山上の説教」、本日のルカ福音書では、平らな所で語られたため「平地の説教」と呼ばれています。

漁師を弟子にされて以降、主イエスは人々の間を歩まれ、重い皮膚病や中風に苦しむ者、手の萎えた人を癒されました。さらに、様々な立場にある弟子を12人招かれたようですから、これまで以上に噂が広まっていったのでしょう。“山から下り、平らな所にお立ちになった主イエスのもとに、大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレム、ティルスやシドンの海岸地方から集った”と聖書は語ります。御言葉を聞こうとする者だけではなく、病気や汚れた霊に悩む者も癒しを願って、主イエスに触れようと押し寄せたようです。順風満帆に歩むことができたのであれば、長い旅をしてまで主イエスのもとに行く必要はありません。痛みや苦しさ、悲しみや貧しさなど、背負わなければならない重荷を降ろしたいと願い、救いを求める者たちが集ったのでしょう。彼らは、主イエスに触れ、その御言葉を聞くことによって、癒されることとなったのです。

「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである』」(6:20-23)。

先ほど申しました通り、主イエスが出会った人々とは、苦難の中にあり、痛みを負う者たちでした。そのことを御存知の上で、主イエスは、「このような者たちは幸いである」と、弟子たちに語られたのです。

人は、窮地にあって発揮される底力を持っていますが、どうしても耐えられないことがあります。それは、“痛みの底が知れないこと”と、“困難の終わりが見えないこと”です。底知れない、先の見通せない状況こそ、人の心を折り、さらに痛みを大きくするのです。

貧しく、今日生きるための保障がないばかりか、明日への希望さえ見出せない人。胃も心も空っぽで飢え、今にも力尽きそうな者。大きな困難や深い悲しみによって泣いている人。主を信じるがゆえに、人々から迫害を受ける者。いずれも、耐え難い状況に置かれており、とても幸せを感じることはできないでしょう。自らの力はとうに尽きて限界を迎え、支えてくれる者もなく、解決策も尽きてしまった八方ふさがりの状態です。そのような困難の中で、人々は何をしたのか。主イエスのもとに向かったのです。すなわち、神の御心を告げ、御業を現される主イエスに最後の望みを置き、救いを願ったということです。人の万策尽きた先になお、“すべてを委ねる”という道を備えられる神の御心を知らされます。

「『しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである』」(6:24-26)。

富み、満腹し、笑い、ほめられているとき、人は“追い求めること”を忘れます。自らの力で何でも手に入れることができると考えるならば、神に願い、祈る必要はありません。いつ失われるか分からないものに心を囚われ、与えられている恵みに気づかずに歩む道とは、空しいものです。そのように、自ら神の愛を手放し、離れ去るのではなく、神に向き直り、伴われることを通して平安を生きるようにと、主イエスは招かれます。痛みを負う者、苦しむ者の幸いとは、神の御業が現される最も近いところにいることでありましょう。

現代社会は、これまで汗水流して働いて来られた多くの人々の努力の上に成り立っています。人差し指一つで、パソコンを通して何でも購入することができますし、調べさえすれば、簡単にどのような知識でも得ることができます。非常に便利で、誰にでも開かれているバリアフリーの時代になりました。ただ、同時に、何かを願うという機会が減り、願う事柄も失われてしまったのではないでしょうか。人の内から満たされない思いが消え去ることはありませんが、足りない何かを埋めるために、どこにどう願っていいのかも、同様に忘れ去られてしまったようです。

物が溢れる時代にあっても、私たちは空しさを覚え、辛い気持ちになります。病気による身体の痛みや悩みによる心の痛みも感じますし、涙を流すこともあります。だからこそ、主イエスは私たちへと「あなたがたは幸いである」と、語られるのです。なぜならば、神は今も生きて働き、私たち一人ひとりが共に生き、平安に与る者となるように望み続けておられるからです。痛みが大きい分だけ、悲しみが深い分だけ、神はより近くにおられることを覚えたいのです。

神は共におられ、私たちの背負う重荷や胸の内にある叫びを知ってくださっているのであれば、私たちが見通せない先や底をも御存知である主を信じ、この身のすべてを委ねて行きたいのです。委ねることのさらに先には、“信じて待つ道”が備えられています。主イエスの御言葉に信頼し、この身をすべて委ね、与えられた命を主と共に歩んで行きたい。信じて待ち望む者とされたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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