洗礼に与る者
ルカによる福音書3章15-22節
3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 3:18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。 3:19 ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、 3:20 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。 ◆イエス、洗礼を受ける 3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、私たちは顕現主日を迎えました。そして、主イエスのお生まれの際に輝き出でた星を研究し、“あの星は新しい王の誕生を告げているのだ”と旅に出た学者たちの物語について、御言葉より聞きました。
外国の学者たちは研究の成果を携えて旅に出たものの、途中で星を見失い、エルサレムの宮殿に立ち寄ることとしたようです。しかしながら、目星をつけた宮殿に新しい王はおられず、彼らは進むべき道を見失います。
時の王ヘロデは、祭司や律法学者と呼ばれる神に仕える者たちに調べさせ、聖書に“約束の王は、ユダヤのベツレヘムに生まれる”と記されていることに気がつきました。外国の学者たちが、手渡されたその御言葉を頼りに旅を再開した時、見失った星が輝き出で、主イエスのもとへと彼らを導いて行ったのだというのです。
貧しいマリアとヨセフの間に主イエスは託され、誕生の知らせは、人々から軽んじられていた羊飼いへと、また、救いの枠にすら入れられていない外国の学者たちへと、真っ先に伝えられました。それは、人々の間で力がない者、困難の中を生きる者、権利をはく奪された者にこそ、真っ先に福音(良い知らせ)が告げられていくことの証しです。
顕現主日で、クリスマスのお祝いは締めくくられますが、お生まれになった主イエスの歩みは、ここから始められて行きます。私たちは、真っ先に福音を告げられた者として目を離すことなく、主の歩みを辿っていきたい。私たちの想いを超えて道を備えられる主の御言葉に、聞いていきたいのです。
さて、本日の御言葉には、主イエスのお生まれから約30年後の出来事が記されています。
「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』」(ルカ3:15-17)。
以前にもお話ししましたが、主イエスが人々の前に来られるより先に、旧約の預言者が語っていた通り「荒れ野で叫ぶ者」が現れました。洗礼者ヨハネです。彼は、毛皮を着て荒れ野に住み、いなごと野蜜を食べつつ生活し、人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。これまでの自己中心的な生き方から、神を中心として新たに生き始める儀式こそ、洗礼です。全身を水に浸し、起き上がることで、新たに生まれ変わることを表現しているのです。この洗礼という儀式は、旧約聖書には記されておらず、洗礼者ヨハネが初めて人々に教えました。
旧約聖書には、主の民の歩みと、その民に対して御業を現される神の姿が記されています。その中でも、ノアの箱舟や、モーセが杖を打って海を割る出来事、喉の乾きを訴える人々に岩から水を溢れさせて潤す主の御業など、水に関係する物語が記されています。これらの物語では、主の御心に背く民が主の与えられた水をくぐることで、主の民としての新たな歩みが始められていくのです。洗礼とは、そのような出来事から考えられた儀式とも考えられます。
いずれにしろ、洗礼者ヨハネは風変りであり、前代未聞の形で神に向き直るよう呼び掛けました。その場に集った者や噂を聞いた人々が、“この洗礼者ヨハネが約束の救い主ではなかろうか”と考えるのも無理はありません。そこで、噂を知っていたであろう洗礼者ヨハネは、これから来られる方について、「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と語り、人々へと救い主の訪れを待つよう訴えたのです。
ただ、洗礼者ヨハネは主の御前に正しく在り、人々の罪に対しても誠実でした。誰もが恐れる領主ヘロデ(時の王ヘロデの息子)について、兄が生きている間に彼の妻を自らの妻として迎えた罪を指摘しました。このことで恨みを買い、投獄され、最終的に処刑されることとなります。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(3:21-22)。
洗礼者ヨハネの姿に続き、非常に短い2節で、主イエスの洗礼について記されています。民衆が皆洗礼を受けている中、主イエスも洗礼を受け、祈っておられたとあります。この後、主イエスはガリラヤの地から歩み出され、人々へと御言葉を語っていかれます。その道中で弟子を迎え、群衆に囲まれることもしばしばありましたから、お独りで、誰にも声をかけられず群衆の中に紛れて祈られる姿は非常に印象的です。“誰も気づかなくとも、人々の只中におられる”とは、まさに私たちにとっての「主が共におられる」ことそのものです。
さて、ここから更に注目すべき出来事が起こります。主イエスは洗礼を受けて祈っておられた時、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」、そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのだというのです。マリアとヨセフに託され、大工の息子として村で成長し、ついに人々の前に姿を現された主イエスが、人々の只中にあって、これから主の御心を現す旅に出られる覚悟を洗礼と言う形で示された時、この出来事が起こりました。罪なき神が人となられ、人々と共に悔い改めの洗礼に与っていく。徹底的に身を低め、罪ある者と共に立たれる主の姿が、ここにあるのです。
天自らが開き、聖霊が降る出来事とは、主イエスと共にいる者たちの上にも、同様に天が開かれたことのしるしです。自らを正しいと思っていた者は、悔い改めず、洗礼を受ける必要はないと考えていたことでしょう。すなわち、自らの罪に落ち込み、どうにか現状を変えたい、滞った人生に流れが欲しいと願っていた者たち、最も苦しさを背負っていたであろう人々が、開かれた天、降る聖霊、響く御声という御業と真っ先に出会うこととなったのです。それは、“あなたがた全員をわたしが引き受ける”という主の覚悟に違いありません。
今、私たちは、私たちの只中に主がおられることを信じ、歩んでいます。見えなくとも、触れられなくとも、御声を聞けずとも、意識せずとも、“主が共におられる”との御言葉は、私たちの人生に大きな影響を与えます。街の喧噪の中でも、一人きりの部屋でも、自らの心の内でさえも、何一つ隠し事のできない方が共におられるならば、私たちは自らの歩みを省みずにはいられません。時に、自らの背負う罪に押しつぶされそうになるときもあることでしょう。
しかし、主イエスは私たちを審くためではなく、赦すために私たちの間に来られました。主イエスの洗礼の際に開かれた天は、今も、私たちを受け入れるために開かれており、降った聖霊によって、私たちは満たされ、導かれ、強められていくのです。主より逃げ去ろうとする時、主が共におられることに負い目を感じ、自信を無くして自らの生き様に打ちひしがれることがあろうとも、ひとたび主に向き直ると時、私たちへと主の大きな愛が迫り、御国が近づく平安を知らされます。
主が身を低め、共に立つ覚悟として示された洗礼の出来事に、今、私たちは与っています。それは、主と私たちの確かな繋がりがあることの証しです。愛される者として生かされ、御言葉に養われる人生を私たちは歩んでまいります。この良い知らせは私たちだけで留めるには惜しいものです。主と共に、この世界に証ししていきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン
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