今、救いを見る
ルカによる福音書2章25-40節
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 2:27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、 2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」 2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 2:35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」 2:36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 2:37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 2:38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。 ◆ナザレに帰る 2:39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 2:40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、私たちはクリスマスを迎えました。クリスマス(Christmas)とは、文字通り、キリスト(Christ)の礼拝(mass)を指します。
待望されていた救い主は、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになりましたが、その知らせを最初に受けたのは、羊飼いたちでした。人の土地に入って草を与えて羊を養い、安息日を守ることもできず、泥だらけで人々に見向きもされない。旧約聖書の掟を守れないことで、指導者たちから“神さまからも見放された”と言われていたであろう彼らへと、神さまの御言葉が真っ先に語られたのです。
寒く暗い馬小屋から、人の輪から追い出された羊飼いたちが野宿する荒れ野から、神さまの御業が始められました。神さまの御業とは、どこからでも、また、誰からでも現されるものであることを知らされます。教会に集うお一人おひとりの困難の中からでも、主の栄光は輝き出でる。自信がなく、自らの背負う重荷に押しつぶされそうになる者をも用い、神さまの御業は現されていくのです。人が価値を見出せないものをも、御自身の御心のために用いられる主に圧倒されるばかりです。
クリスマスとは、主のお生まれの喜ばしい日であると同時に、私たちが主の輝きに照らされる者として歩み始めた記念日でもあります。そして、いつどこに在ろうとも、私たちは主の光の内に生きることとなります。主によって届けられたこの素晴らしいニュースを手渡された私たちは、新しく始まる日々へと、主と共に歩み出したいのです。
さて、本日の御言葉では、マリアとヨセフがお生まれになった御子イエスを連れ、神殿にやってきた出来事が語られています。
何のために神殿にやってきたのかと言いますと、旧約聖書に書かれる掟(レビ12章)のためでした。古くから“すべては神さまによって与えられる”という精神のもと、初めて授かった子どもは神さまにお返しする習わしがありました。ただ、実際に献げることはできませんから、身代わりとして動物を祭司に手渡し、儀式を行っていました。本来、「一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として」(レビ12:6)献げる掟でしたが、マリアとヨセフは貧しかったため、2羽の鳩を携えていったようです。
また、旧約聖書には、「生き物の命は血の中にある」(レビ記17:11)と記されています。出産の際、女性は触れてはならない神聖な血に触れることになるため、生れたのが男の子である場合には、40日間の清めの期間を過ごさなければなりませんでした。清めの期間は、神殿に近づくことができないため、マリアが神殿を訪れたのは、その後の出来事ということになります。
「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た」(ルカ2:25-27)。
シメオンは、預言者でした。預言者とは、未来に起こることを予言する者のことではなく、神さまの御言葉を預かり、それを人々に告げる者のことを指します。自らのことだけではなく、「イスラエルの慰められるのを待ち望む」、すなわち民全体が救われることを待ち望んでいたことからも、御言葉に信頼して歩むシメオンの預言者としての在り方を窺い知ることができます。彼自身も、神さまによって「主が遣わすメシア(真の王、救い主)に会うまでは決して死なない」との御言葉を受けていたようです。
ある日、聖霊に導かれて神殿に向かったシメオンは、両親に連れられる主イエスと出会うこととなりました。
「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。』父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。」(2:28-33)。
このシメオンの言葉は、私たちの礼拝で用いられる「ヌンクディミティス」です。“待ち望んでいた救い主が、ついに来てくださった。主の御言葉が本当に果たされたことを見て、今、私は救いに与った”という賛美の言葉です。
マリアとヨセフは、天使によって主イエスのお生まれを告げられ、後に幼子が人々の希望の星、救いそのものとして世を歩んで行くことを、既に告げられていました。ただ、多くの人々が集う神殿で、突然現れた預言者によって祝福されるとは思っていなかったのでしょう。こうして、マリアとヨセフ、招かれた羊飼いと星に導かれて集った学者たちで分かち合われた救い主のお生まれは、人々の前で宣言されることとなったのです。
続けて、シメオンは主イエスの両親を祝福し、マリアに言いました。
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(2:34,35)。
後に「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ」(3:4)と語られるように、救い主の訪れによって、道が整えられていくこととなります。強者が弱者を支配し、病める者が人々の輪から遠ざけられ、富める者が貧しい者から搾取し、語られるべき御言葉が忘れ去られた世界に、主イエスは来られました。その語られる御言葉と現される御業によって、人々が作り上げてきた歪められた常識は打ち崩され、人々が主と共に生き、安らぎを得る道が備えられることとなるのです。
すべてを御存知である主イエスの御前に立つとき、人々の心や想いが露わにされ、分裂が起こるとシメオンはマリアへと語ります。また、反対者が現れ、マリア自身の心が剣で刺し貫かれることとなるというのです。シメオンが語る言葉が示すのは、主イエスの旅の到着点である十字架の出来事です。
しかし、彼は御子イエスが進むべき運命を悲嘆しつつ、このことを語ったのではありません。“私は救いを見た!イスラエルの人々だけでなく、この世を生きる全ての人の希望であり、大きな喜びである!”と言った後に、マリアとヨセフを祝福し、語ったのです。主イエスの十字架の出来事によって、心が剣で刺し貫かれたような悲しみに落とされることとなろうとも、その先には、主イエスの復活の出来事が備えられているのです。神さまの御前では、人が太刀打ちできない死ですら無力であり、主の愛によって人々は神さまと共にある永遠の命に与る。しかも、ユダヤ人にとどまらず、すべての人々が招かれているというのです。生涯の終わりに、救いそのものとして世にお生まれになった主イエスと会い見えたシメオンの喜びとは、いかに大きかったことでしょう。
私たちは、毎週の礼拝の派遣の部において、ヌンクディミティスを歌います。それは、御言葉を聞き、救いの出来事が私たちに現されたことへの賛美です。シメオンと同様に、痛みの多い歩みの中でも、御言葉はあなたと共にあって、あなたが生きる上に必要な力として働き、支えてくださるのです。日々、救い主に伴われる私たちの歩みとは、いかに幸いなことでしょうか。主イエスはお生まれになり、今、私たちと共におられます。主によってプレゼントされた“今日”という日を、喜びを噛み締めつつ、歩んで行きたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン