来るべき王
ルカによる福音書19章28-40節
◆エルサレムに迎えられる 19:28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。 19:29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、 19:30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 19:31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」 19:32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。 19:33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。 19:34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 19:35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。 19:36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。 19:37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。 19:38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」 19:39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。 19:40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
本日、私たちは待降節(アドベント)を迎えました。教会の暦では、新年にあたります。この待降節には、主イエスが12月25日にお生まれになったことを覚え、4週間に渡って、救い主の到来を待ち望む時として備えられているのです。余談ですが、25日が平日であることが多いため、日本の教会では、皆が参加しやすい待降節の4週目の日曜日に、降誕祭(クリスマス)をお祝いしています。
さて、さきほどお読みしました御言葉には、主イエスが宣教の旅の終わりであるエルサレムに到着されたときの出来事が記されていました。
「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、「なぜほどくのか」と尋ねたら、「主がお入り用なのです」と言いなさい』」(ルカ19:28-31)。
主イエスは、ガリラヤから歩み出されて以降、多くのユダヤ人の町や異邦人の地に向かわれました。その最中で、病める者や救いを求める者、試みて議論を持ちかけてくる者や捕らえようと企てる者など、主イエスは出会った一人ひとりへと神さまの御心を語り、その御業を現していかれたのです。これまで忘れられていた良い知らせが、誰一人漏れることのなく伝えられるように、御自身の足で運んで行かれました。その旅は3年間に及びましたが、ついにこの世に来られた目的を果たすべく、主イエスは終着の地であるエルサレムに歩んで行かれるのです。
立ち止まることなく、真っ直ぐに目的地へと向かわれる主イエスの姿には、揺るぎない覚悟が窺えます。そして、すべて御存知の上で、弟子たちを先にある村に遣わして、繋いである子ろばを連れてくるように言われました。共に歩んでいた弟子たちは、先にある村に何があるのか見当もつかなかったでしょうが、御言葉に従って歩み出すと、すべて主イエスが言われた通りに事が進んだのだというのです。弟子たちは、真っ先に“語られた御言葉は必ず果たされるのだ”と、驚かされたことでしょう。
「そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。『主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光』」(19:35-38)。
記念すべきエルサレム入城にあたって、主イエスは服のかけられた子ろばに乗って行かれました。軍馬のように近づく者をはねのけ、乗る者に手が届かない様とは大きく違います。まだ荷を運んだこともない子ろばであるならば、その歩みは非常に遅く、乗る者の足が地面に着きそうなほど背が低かったことでしょう。その姿が少し滑稽であっても、非常に親しみやすく、子どもたちでさえも恐れずに近くに寄ることができるのです。なぜ、主イエスはわざわざ子ろばに乗ってこられたのでしょうか。その答えは旧約聖書に記されています。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」(ゼカリア9:9)。
“約束の救い主、あなたが待ち望んでいる王は、子ろばに乗ってくるのだ”と聖書に記されていることを、エルサレムに集っていた皆が知っていました。人々は、かつて神さまが語られた約束の成就をつぶさに見たのです。確かに、子ろばに乗られる柔和な御姿は、主イエスの歩みを映し出しているかのようです。けれども、それ以上に、“神さまの約束が主イエスによって果たされていくこと”が重要だったのです。主イエスの姿を見た人々は、王に対して敬意を示す仕方で自らの服を道に敷き、賛美の声をあげました。約束の実りこそ、彼らの喜びの源だったのです。ただ、喜ぶ者ばかりではありませんでした。
「すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください』と言った。イエスはお答えになった。『言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす』」(19:39,40)。
主イエスを偉大な人物としか捉えていなかったファリサイ派の人々にとって、いくら聖書の通りであっても、主イエスを約束の王として迎え入れることはできませんでした。弟子たちを叱るように訴える彼らへと、主イエスは旧約聖書を引用して言われました。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と。“用意された子ろば”、“約束の王の御姿”など、短い間で二度も、語られた御言葉は、その通り果たされました。主イエス御自身が“約束の実り”そのものであり、それゆえ、“もし、この場で皆が黙ったとしても、あなた方が阻もうとも、「石が叫びだす」ほどの御業は必ず果たされていくのだ”と、主イエスは言われるのです。従う者の賛美の声と冷ややかに静観する者の中、主イエスは人々の中心を歩んで行かれました。
けれども、私たちはこれだけ盛大に迎えられた主イエスが、この後エルサレムにて処刑されることを聖書より伝えられています。しかも、賛美の声をあげつつ迎えた人々の“こいつを十字架につけろ!”との叫びによって、十字架につけられることとなるのです。そのように、舌の根の乾かぬ内に手のひらを返す彼らの中心を、服が敷かれた道の上を、主イエスは歩んで行かれました。福音(良い知らせ)を告げる使命のゆえに、主イエス御自身の方から、人々に近づいていかれたのです。
今、私たちは御言葉を通して、主イエスの十字架の死によって私たちの罪が赦されていることや、復活によって永遠の命を指し示してくださったこと、今この時にも主イエスが共におられることや、私たちの言い表せない胸の内や祈りを聞き届けてくださることを知らされています。救いが既に示された上で、私たちはこの場に集っているのです。
しかし、エルサレム入城の場に集っていたのは、どのような人々でしょうか。救いを知らず、悔い改めもせぬまま、期待しつつ叫ぶ者たちです。主イエスは、そのように自らの願望や期待をすべて背負わせようとする者たちのもとへと、自ら近づいて行かれたのです。それは“主イエスが近づかれる”という出来事から、神の国が近づいたこと、彼らの救いが始められたことの証しです。人の正しさなど関係なく、たとえ敵意を向けていようとも、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)という神さまの御心を果たすために、主イエスはその歩みを止めることはなさらないのです。
主イエスは、あなたに近づくためにこの世に来られました。救いが何か分からなくとも、拭い難い負い目があろうとも、癒し得ぬ傷を持とうとも、あなたを神さまのみもとに迎えるために、主は近づいてこられるのです。待降節(アドベント)の時、心を向けつつ、主を迎える者でありたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン