主は御存知である
マルコによる福音書12章41-44節
12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、一人の律法学者が「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねた際、主イエスが2つの掟をもって答えられた出来事を、御言葉より聞きました。当時の指導者たちは神を愛することを第一に考え、自らの救いを追求しつつも、隣で生きている貧しく、弱い立場に置かれた人々をおろそかにしていました。正しく在ろうとするばかりに、いつしか人をないがしろにしていった者たちへと、主イエスは “全身全霊(心、精神、思い、力)を尽くして、唯一の主を愛しなさい。”そして、“隣人を自分のように愛しなさい”と、言われたのです。
“神を愛すること”と“人とを愛すること”は分かち難く一つであり、共に果たすことを神さまは求めておられます。だからこそ、主イエスは御自身と共に歩み、神さまの御心を現していく道へと彼らを招かれたのです。
私たちは神さまに愛される者として命を吹き入れられ、それゆえ人からも尊ばれる者としてこの世を生かされています。そうであるならば、主の御心に立ち、隣に生きる一人ひとりを大切にする者として、歩んでいきたい。自らにではなく、主に向き直り、祈る者でありたいのです。
「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」(12:41,42)。
本日の御言葉には、神殿で献金をする一人の貧しい女性の姿が記されています。先週に引き続き、舞台はエルサレムです。紀元前1000年頃、当時の王ソロモンにより、神殿が建てられました。一度は破壊されましたが、紀元前516年に再建されて以来、紀元70年まで、エルサレム神殿は人々の信仰の中心にあり続けました。
主イエスの時代、このエルサレム神殿では、立場によって入ることのできる区画が定められていました。異邦人は神殿を囲う庭まで、女性は聖所前の庭まで、男性は聖所内の祭壇前まで、祭司は至聖所の周囲まで立ち入ることが許されていたのです。聖所内で行われる祭儀には、男性のみが参加することができたため、女性巡礼者たちは手前の庭で、中の様子を想像するほかなかったことでしょう。
女性が入ることのできる庭には、ラッパの形をした賽銭箱が13個置かれており、集められた献金は神殿の補修、祭儀や慈善事業に用いられていたようです。主イエスは、この庭で賽銭箱に向かって座り、人々の様子を見ておられたとあります。神殿には祭儀や祈り、装飾の鑑賞など、あらゆる目的の人々が訪れました。そこに、夫を亡くした一人の女性がやってきて、レプトン銅貨2枚を入れたのだというのです。1デナリオンが日当として支払われていましたから、その1/128の価値であるレプトン銅貨とは、日本円で言うと50円ほどです。それを2枚、彼女はささげたのです。
紀元前800年に献金の制度が始まった際には、ただ箱に穴を開けた賽銭箱が置かれました。主イエスの時代にはラッパの形をしていたようですから、より多くの金額が入れられるように音が鳴る仕組みに変えられていったのでしょうか。いずれにしろ、富める者は称賛され、少ない金額を入れる者はみじめな思いをしなければならなかったことが窺えます。
主イエスがご覧になっていた時、その場に居た金持ちは、金額の大きさを示すために音を立てて献金したに違いありません。誰にも注目されない中、ひっそりと一人の女性はレプトン銅貨2枚をささげたのです。
少し前の個所には、次のように記されています。
「イエスは教えの中でこう言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる』」(12:38-40)。
律法学者たちは、愛する者との別れを悲しむ女性たちの家に行き、見せかけの長い祈りをしては財産を搾取していたようです。家の主人と収入とを失い、社会的に抑圧された立場に置かれ、貧しい中利用されていく。彼女たちの背負う悲しみと、苦しさの大きさは計り知ることはできません。神殿に訪れ、主イエスの御前で献金をささげた一人の女性も、困難の中に置かれていたに違いありません。
「イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである』」(12:43,44)。
主イエスは、神殿を訪れた一人の女性を見て、弟子たちへと“彼女は乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた”。「賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」のだと言われたのです。誰にも気づかれず、重荷を背負う彼女の痛みを、主イエスは全て御存知であったことを知らされます。
レプトン銅貨2枚が全財産であるならば生活は非常に苦しく、頼れる者も居なかったことが分かります。祭儀を見ることもできず、金持ちの横でみじめな思いをしようとも、彼女は、明日どころか今日一日を過ごすにも足りない全財産を神殿の賽銭箱に入れたのです。自らのすべてを神さまの御前に献げ、信頼して祈る姿に驚かされるばかりです。
聖書の御言葉を研究し、語り継ぐはずの者たちは、自らの救いを追い求めて、人を愛するどころか裁いていき、神さまの御心は見失われました。祭司たちは、いけにえの動物を献げれば罪が赦されるからと、自らの役割を淡々とこなし、神殿では商人たちによって動物の売買がなされていました。建物は残っていたものの、神さまの住まう場所、神殿のあるべき姿は崩れ去ってしまったのです。
しかし、このエルサレムに、貧しくともすべてを献げ、神さまに信頼して祈る一人の女性がいました。人々にとっては居ても居なくても変わらない、気に留める価値もないと思われるこの女性の内にこそ、神さまの住まう神殿があったのです。人々が何の関心も持たないであろう彼女のことを、主イエスはすべて知っておられました。それは、神さまは困難の中にいる彼女のことを御存知であり、内に秘める想いと祈りの声を聴いておられることの証しです。主が共におられるならば、彼女の行きつく先は真の平安に違いないのです。
主が全て御存知であると言われるとき、私たちの内には様々な思いが生じます。誰にも言えない痛みや苦しさを背負っているならば、知られていることに安心し、これから救い出されるに違いないと、信頼する想いが沸き起こることでしょう。反対に、礼拝に集いつつも主に心を向けていなかったり、日常の中で邪な思いを持っているならば、これほど恐ろしく、恥ずかしいことはありません。主の御前では、私たちはありのままの姿に変えられるのです。
しかし、恥ずかしくて言い表せない私たちのありのままの姿を御存知の上で、主は全てを赦す道を選んでくださいました。他者や自分自身から見て価値がないと思われる部分も含め、最も大切な御子イエスの命と引き換えに、主は私たちを愛し、引き受けてくださったのです。だからこそ、私たちは形にこだわり、周囲を気にするのではなく、弱さを含め、この身のすべてを主に委ねたい。すべてを御存知の上で引き受け、日々恵みを与えてくださる主の愛に、圧倒されていきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン