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一つの命(全聖徒主日)

マタイによる福音書5章1-12節 5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。 5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

人はこの世に生まれ、様々な出会いや経験に彩られた特別な人生を歩み、必ず死を迎えます。「生」から「死」までの間について、人が知りうることはたくさんあります。ただ、生まれる前と死の先については、長い月日が経とうとも謎は解き明かされないままです。いつか自らの魂で確認することになったとしても、その答えをこの世界に告げることは叶いません。「生」と「死」とは、人が確認することのできる「初め」と「終わり」であることを思い知らされます。

しかし、私たちは知っています。生まれる以前に、お母さんのお腹の中にいる頃から、名前はどうするかと話し合われ、元気に成長しているかと心配され、生れるときを喜ばれつつ待ち望まれていることを。生まれる前の命が既に尊ばれているのです。人の死の先も同様です。身体の温度が失われた後にも、思い出され、愛する者たちの愛しさや寂しさが告げられます。何年経とうとも、関わった者たちの内には、生前の笑顔が焼き付いており、その歩みは後の世代に語り伝えられていく。現代では、写真や動画などが普及していますから、さらに鮮明に覚えられていくことでしょう。忘れられない限り、死の後も人が生きた軌跡は消えることなく、確かにそこに在り続けるのです。生まれる以前から喜ばれ、死してなお愛する者たちを温かく包み込んでいく人の「命」とは、生と死よりも遥かに永く続くものであるように思うのです。

キリスト教会では、神さまによって一人ひとりが形づくられ、命の息を吹き入れられて生きる者となったと伝えられています。共におられる神さまは、人が望もうと望むまいと人生に伴われ、最も必要な道を備えられます。そして、死を迎える時に、預けられた命を神さまへとお返しし、御国に招かれ、神さまと共に一つの命を生きることとなると約束されているのです。神さまの内にあった命が人に預けられ、再び神さまと一つにされたとき、真の平安を生きていくのだというのです。

旧約聖書のイザヤ書には、次のように記されています。

「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49:14-16)。

イエス・キリストの御手には十字架に打ち付けられた消えない傷跡があります。そこに、一人ひとりの名が刻まれ、永遠に覚え続けてくださることに、人は死によって中断されることのない安らぎを与えられると告げられています。

このように、聖書において、人の命は生と死という言葉以上に永く続き、後に神さまと分かち合うものとして捉えられています。そして、死の先だけではなく、痛みの多い人生を生きる中にあっても、人が真の平安を生きるようになるべく、神さまからの命を、神さま御自身と分かち合うのです。

本日の福音書の内容は、「山上の説教(山上の垂訓)」として、教会外でも知られる御言葉です。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで

あらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」(マタイ5:3-11)。

「幸いである」と語られているのは、それぞれこの世界を生きる上で、大きな重荷を負っていたり、困難の中を歩んでいる者たちです。人の世の価値観から見て、決して幸福とは思えない状態、痛みの中にある者が何故“幸いだ”と、言われるのでしょうか。

教会の中で、戦時中や戦後の貧しかった生活についての話を聞く機会があります。“物も食料、人手、何もかも足りなかった。授業どころではなく、子どもまで駆り出されて、木を切り倒し、畑を作っていった”。多くの困難について想像も及びませんが、話してくださる方々の内に力強さを感じました。満たされない分、互いに力を合わせ、目標に突き進んで行かれたのではないかと思うのです。私たちの年代は、物が溢れ、パソコンを使えば何でも手に入り、ドアすらも自動で開き、何不自由なく生活できる世の中を生きてきました。「ゆとり世代」と呼ばれ、目標がないまま何となく生きる人も多くいますし、私自身もその一員です。満たされることで、何かを追い求め、心の底から願うことが少なくなったのでしょうか。

主イエスが「幸いである」と言われた者たちとは、自らの力では到底打破できない問題を背負っており、耐えがたい状況でありました。すなわち、もはや神さまに祈るほかない状況に置かれていたのです。その人々の、限界を迎え、力尽きて祈るその声を、神さまは必ず聴かれ、あなたに必要なものを備えられるのだと、主イエスは約束されたのです。 “あなたは幸いだ。今のあなたから神さまの御業が現される”と告げられるキリストがおられる。その御言葉に驚き、慰めを見出すことを通して、主イエスと共に歩み出すならば、苦しさのどん底にあっても、人は真の平安とは何かを知らされるのです。

闇が深いほど、差し込んだ一筋の光はより輝きます。痛みの中にいるからこそ癒され、悲しむからこそ慰められます。また、自らの力の限界を知ったからこそ、その先で神さまに頼ることができ、祈るからこそ、耳を傾けて道を備えられた神さまの御業に気づかされていきます。人が死の先だけではなく、痛みの多い人生にあって、神さまに伴われつつ平安を生きる。これこそ、主イエスを通して告げられた神さまの御心なのです。

本日は召天者記念礼拝ですが、記念堂に入られたお一人おひとりの歩みは順風満帆だったのでしょうか。きっと多くのことに悩んだり、後悔すること、向き合わなければならなかったこともあったことでしょう。よく“クリスチャンになったら悩みが増える”と言われますが、聖書の御言葉を聞く者の内には葛藤が起こされ、決して正しく在り続けられない自らの姿と向き合わされるのです。しかし、そのような多くの苦難を背負いながらも、皆さまのうちには、優しく、温かい愛する方々の姿が焼き付いているはずです。主によって苦しさを共に担われながら、主のみもとに向かうまで、ご生涯を精一杯全うされた。私たちは、その姿を、その足跡を尊び、覚え続けたい。そして、愛する方々の名前は主の御手に刻まれ、今後決して消されることはないと言われる主の御言葉を信じたいのです。

「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(5:12)。

人は生まれる前から喜ばれ、死の後にも“出会えてよかった”と喜ばれ続ける者として、神さまに創られました。たった一度きり、しかし、決して消えることのない命を私たちは生かされていきます。いつか、愛する方々と共に一つの命を生きる時まで、与えられた道を精一杯歩んでいきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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