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真の自由とは(宗教改革主日)

ヨハネによる福音書8章31-36節

8:31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

この世界の社会には常識があり、そこに生きる個々人は価値観をもっています。時に、人は気に入らないものを遠ざけたり、裁いたりすることがあります。大多数の意見が一致するならば、ある人を自分たちのコミュニティーから追放することもできます。「出る杭は打たれる」という諺がありますが、人は十人十色ですから、誰もがこの世の善悪の判断によって、常識の枠にはめ込まれた経験がおありになるのではないでしょうか。

旧約聖書の創世記3章には、人の善悪の出処について記されています。神さまによって初めて創られた人間アダムとエバは、食べてはならないと言われていた木の実を、蛇にそそのかされて取って食べてしまい、自らが裸であることを知って木の葉で隠したのだというのです。彼らは自らの善悪の判断に従って、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)と言われたその姿を恥ずかしく思い、神さまから身を隠しました。こうして、人の罪が始まったと聖書は語ります。

現在、人の世には多くの法律があり、背く者は罰せられますが、人の語る“善悪の判断による罪”と、聖書の語る“神さまの御心から離れ、的外れに生きる罪”とが、全く異なるものであることを覚えたいのです。

私たちの教会の名前ともなっているマルティン・ルターは、そのような人の側からの判断を一切排除し、徹底的に神さまの御言葉のみに心を向けるように声を上げた神学者です。そして、彼の訴えが宗教改革のきっかけをつくったのです。人の常識や価値観によって覆い隠された神さまの御心が、再発見された記念である宗教改革。今年498年目を迎える私たちは、ルターと共に立ち、主の御言葉のみに心を向けたいのです。

「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』すると、彼らは言った。『わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。「あなたたちは自由になる」とどうして言われるのですか』」(ヨハネ8:31-33)。

主イエスが御自身を信じて集まったユダヤ人たちへと語られた御言葉です。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とは、どういう意味でしょうか。「とどまる」という言葉はギリシア語で「メノー」と言うのですが、「つながる」という意味もあります。これは、“ぶどうの木に枝がつながる”というときにも用いられる言葉です。すなわち、主イエスの御言葉を聴き、御言葉に示された十字架の愛、キリストの愛にいつも繋がり続けるとき、真に主の弟子となのだと教えられたのです。

続けて、弟子となった時、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と、主イエスは語られました。すると、これを聴いたユダヤ人たちは、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」と答えたのです。旧約聖書には、イスラエルの民と共に歩み、彼らを敵から守り、祝福を与え続けられた神さまの姿が記されています。“その子孫であるユダヤ人は、当然神さまによって救われる”と彼らは考えていました。真の自由に招かれる主イエスに対して、ユダヤ人たちは“これまで誰の奴隷にもなった覚えはないし、敵国の弾圧の中でも神さまに従ってきた私たちはすでに自由を持っています”と言ったのです。

「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(8:34-36)。

主イエスは、聖書の御言葉を守り、神さまに選ばれた民としての自負心をもっていたユダヤ人たちに言われました。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と。家の主人は、好きな時に奴隷を売り出したり、解き放つことができます。たとえ、これまで神さまに選ばれた民として自由に振る舞ってきたとしても、神さまによって関係が断ち切られたならば、ユダヤ人たちは罪の奴隷として身を滅ぼすほかない。その際、人の側に選択権はありません。だからこそ、罪の奴隷ではなく、救いの御子である御自身の御言葉にとどまって真の弟子となるように、主イエスは招かれたのです。

それでも、ユダヤ人たちは、最終的に“何の権威をもって神さまのように振る舞うのか”と主イエスを捕らえ、十字架にかけて殺しました。そして、それまで通り、自らの努力や熱心さに惚れ惚れし、偽りの救いにしがみつくこととなったのです。

いつの時代にあっても、この主イエスの御言葉の意味は見失われてしまいます。ルターの生きた西暦1500年に至っても、人は神さまの御心から離れ続けるのです。この時代では、一般的に、「神の御前に立つ個体が、意志と能力の限りを尽くして良い行いに努力し、恵みの神に受け入れられる水準にまで到達すべきである」と考えられていたようです。そのように言われつつ、カトリック教会の中枢は腐敗していました。結婚が禁止されていた司祭が隠し子をもち、隠し子のために職位が売買され、罪の償いを白紙にする贖宥状を売り、それを教会の建築費用に充てるなど、人々は神さまの御心を踏みにじり、自らのために利用していたのです。このままではいけないと、声を上げた者が火あぶりにされたケースもありました。そのような中で、ルターは「聖書のみ」と語り、神さまの御心に立ち返るように声をあげたのです。

ルターは、人の自由について語っています。“我々はサタンによって御されている馬車だから、我々の行き先は御者によって決まる。我々を運転しているのは、サタンだから、行き先は地獄でしかありえない。しかし、同時に、我々の罪がキリストによって担われ、キリストの義が我々に着せられるという、喜ばしい交換が無償で与えられているのだ”と。

人は、自らが運転手として車を走らせているつもりでいます。だから、運転次第で救いというゴールに到達できると考えるのです。しかし、実際には、私たちは運転手でもなんでもなく、サタンに運転される車です。そして、運転席にいるサタンをキリストが蹴落とし、キリスト御自身が運転手となるしか、私たちという車が天国に至る方法はないのだというのです。

しかし、主イエスは、十字架にかかられることによって私たちの罪を引き受けてくださるばかりか、地獄に行くほかない私たちに御自身の義(正しさ)を着せてくださいました。だからこそ、“イエス・キリストを通して神さまへと信頼する私たちの行きつく先は、神さまのみもとなのだ”と、ルターは言うのです。

私たちは失敗や後悔と向き合わなくてよい道を願いますが、罪の奴隷である限り、それを避けることはできません。時に傷つき、苦しさを感じながらも、行く先の分からない人生を歩むのは非常に辛いことですが、今や、主の御言葉は覆い隠されることなく、取り戻されたのです。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(8:31,32)。

主日ごとに聴く御言葉は、私たちを許し、神の御国へと招く主の御声です。この御言葉にとどまるとき、私たちには真の自由が与えられます。たとえ、私たちという車が傷つき、へこんでいようとも、キリストによって運転されているならば、辿り着く先はただ一点です。罪におびえる者のではなく、神さまの義(正しさ)を着せられた者として、感謝と喜びに押し出されて始まる第一歩を踏み出していきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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