わたしたちって誰のこと?
特別伝道集会が行われました。
河田優牧師による説教です。
マルコによる福音書9章38-41節
9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
(説教者は初めに)私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
自分の好き嫌いを表す言葉として、「気に入る」とか「気に入らない」という言葉がある。興味深い言葉です。私達の思いがよくわかる。人間にとって好きであるとか嫌いであるとかの判断は、この言葉のごとく「自分の気に入っているのか」「自分の気に入っていないのか」が問題となっているのです。
ものさしはこの自分の考えです。気持ちです。「あの人はああいう人だから」と人を見る目、良し悪しをつける心、私たちはどうしても自分の「気に入る」「気に入らない」の思いからなかなか抜け出せずにいるのかもしれません。
今日の聖書の日課を読むと、おそらくイエス様の弟子のヨハネは、気に入らない人たちに出会ってしまったことがうかがい知れます。
38節「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
「やめさせようとした」という言葉は「やめさせた」と読んでも良い言葉です。実際にやめさせることができたのか、文句を言うだけ言ったけどやめさすことまではできなかったのかはわかりませんが、いずれにしてもヨハネにとってこの人は気に入らない人物であったはずです。
ここでヨハネが言う「悪霊を追い出す」とは、病を癒す行為をそのように言いました。様々な治療に加え、お祈りやまじないによって病を癒すということは、イエス様の時代いたるところで行われていたのです。そのお祈りやまじないの時に、偉大な父祖たちや力ある人物の名前が用いられていたのです。ヨハネが出会ったのは、イエス様の名前を用いる人でした。
でもヨハネはこの人のことが、そのようにイエス様の名前を勝手に用いることが、気に入らないのです。
だから言います。
「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
ヨハネは「わたしたちに従わない」と言っています。同じ箇所を載せているルカ福音書の9章には「わたしたちといっしょにあなたに従わないので」と記されていますが、そのルカよりも古く編集されたとされるマルコでは、「わたしたちに従わない。」とヨハネが言ったと記されているのです。面白い言葉です。
そもそも聖書は、皆、共にキリストに従うことを教えています。それはルカ福音書が「わたしたちといっしょにあなたに従う」と書いている通りです。
でも、このマルコ福音書で示されているヨハネの「わたしたちに従わない」という言い方に、キリストご自身が含まれていたのか、と言うことが気になるのです。もしかしたらここで言う私達の私とは自分自身のことでしかなく、自分の気に入らない人、まさしく自分の気に、思いに、心に入らない人に向けられた言葉であるのかな、なんていうことを思ってしまうのです。
このようなことを考える中で、本日の日課の前後に少し向けることは良いことでしょう。今日の箇所を挟んで、マルコ福音書は関連のある出来事を続けて記しています。
日課の前の部分に目を向けると、弟子たちが誰がいちばん偉いのかと論じ合う中で、イエス様は一人の子供の手を取り、彼らの真中に立たせた上で37節「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」と告げておられます。
そして今日の日課に続く部分に目を向けると、10章の13節以降には、イエス様に触れていただこうと、人々が子供たちを連れてくるのを、弟子たちが叱った出来事が記されています。イエス様は憤って弟子たちに言われます。14節「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」
弟子たちは思っていたのでしょう。子供たちは無理解で、騒々しく、人の世話になるばかりで、自分たちの群れに相応しくない。私たちと行動を共にするには、わずらわしい存在でしかあり得ない。確かにそうです。この当時の子供は人数にも数えられないような弱くて小さい、存在でした。大人になる前の予備群であり、まだ完成してない人格のように扱われていたのです。
だから彼らは主に従い行く自分たちに子供たちが関わることを拒否したのです。
弟子たちは自分たちに子供が関わることを拒絶しました。しかし、その時にイエス様が言われたことは、14節「子供たちを私のところに来させなさい。」という言葉だったのです。
弟子たちは考えていました。それは「私たち」です。しかし、イエス様は告げられるのです。「私のもとに連れてきなさい。」
この「わたし」と「わたしたち」の違いは本日の日課にも表されます。
日課ではヨハネが告げるのです。38節「私たちに従いませんでした。」それに対してイエス様は答えられます。39節「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい。」
40節には「私たちの味方なのである」ということを言われていますが、何よりもイエス様が告げる私達には、「主イエス」ご自身がおられる「私たち」なのです。
それに引き換え、本日のヨハネの言葉も、弟子たちが子供たちを寄せ付けようとしなかった姿勢にも、そこで語られる「私たち」はいつしか、主イエス様のおられない「自分たち」に摩り替わっていたのです。
このことは非常によく気をつけなければなりません。そして判断は自分たちの気にいるかどうか、自分の心や感情、考え方の枠にすり替わっていたのです。
私たちにあてはめて考えてみましょう。
聖書では「主イエス様に従うか」が問われているのであって、「主イエスの弟子である私たちに従うのか」が問われているのではありません。しかし、私たちは自分たちの信仰生活や共同体としての生活こそが、もっとも正しきものとして、それを判断基準に物事を考えてしまうことがあるのです。
私たちも時にはヨハネと同じように、私たちに従うかどうか、私たちと考え方が同じかどうかで、他の人の信仰を自分なりに判断し、評価しようとします。自分の信仰のあり方を基準にして、「あいつには信仰がない。」などと思ってしまうこともあります。
しかし、イエス様の教えはもっと広くて深いのです。
イエス様の言葉を聞いて、10人いれば10通りのイエス様に対する従い方があるのです。それが主イエス様への信仰からなら歩みであれば、誰もその従い方が間違っているなどとは言えないはずなのです。
ルーテル学院は毎日の礼拝が行われています。
4年生には、学校生活を振り返り、多くメッセージしてもらっている。
ある学生のメッセージから。
幼稚園時代からキリスト教の幼稚園であり、日曜学校も続けて通った。でも信仰深く、み言葉に生きることに熱心だったのではない。むしろクリスチャンや聖書のことばを馬鹿にしていた。
彼はルーテル学院に入り、臨床心理学科にもかかわらず、聖書の勉強を始めますが、その目的は聖書の矛盾点を探していくことでした。
そして大人たちに質問するのです。どうこたえるか、答えられないかをうかがう。
しかし、なんとこのような彼が、このイースターに洗礼を受けた。
幼稚園時代から通い続けてきた教会の牧師の祈りと、その働きかけががあった。このようなまっすぐにキリスト教と向き合おうとしない青年を受け入れる牧師のやさしさがあった。いや、その青年を受け入れていこうとするための祈りがあった。
問答を仕掛けてせせら笑おうとする、その彼の心をも、いつか神様にとらえられると信じる牧師。そして教会員の祈りがあった。
彼は預言者としての召しを恐れて神様から逃げ回るエレミヤの心を自分と准え、それでも神様に捕えられたエレミヤの「私は負けました。」の言葉をタイトルにしてメッセージをしたのです。
教会を批判的に見ようとする、聖書の矛盾を探す。そのような年月を15年ほど重ねる。しかし、決して、見捨てない、見放さない。その牧師と教会の姿は「私は負けました」という信仰告白を導きました。神様に負けたのです。
わたしたちもこの牧師や教会の姿を覚えたい。
大切なのはわたしたちの気に入らないことが信仰者としての判断材料なのではなく、共に主に赦され、共に主に従う者とされたことが私たちにとってもっとも大切なことなのです。
主が受けいられらようとされるならば、それは喜んでわたしたちも受け入れていく、主の働きに仕えていく。そうしたいのです。
ヨハネが言う「私たちに従っていない」という時の「私」の部分は、恐らくヨハネ自身を指し示す「私」であったでしょう。
しかし、主イエス様が言われるときの「私たち」は、主イエス様ご自身を示します。
私たちは、この「私たち」自身の中に、主イエス様を見失ってはならないのです。教会の群れとして、主に従い行くものの一人として「私たち」を語るときには、この自分の思いを中心とした「私たち」ではなく、主イエス様が語られる「私たち」でなければなりません。
イエス様をいつも中心にして、その主イエス様に従い行く「私たち」にこの私も加わっていきたいと思います。キリストの弟子として、自分に与えられた方法で、主を証しし、奉仕や伝道に向けて歩んでいきましょう。
(説教者は終わりに)(一)人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。