的外れ
マルコによる福音書9章30-37節
9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、主イエスが「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マルコ8:29)と、弟子たちへと問われた出来事を御言葉より聞きました。
当時、主イエスの御業を見た人々や噂を聞いた者たちは、主イエスの正体についてそれぞれに想像していました。“イエスという人物は、生きて天に上げられた預言者エリヤだ。いや、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた洗礼者ヨハネだ。きっと、神さまの御言葉を告げる預言者の一人に違いない”と、人々は主イエスから救いの出来事が始められることを期待していたようです。
この噂を弟子たちから聞いた主イエスは、最も近くで共に歩む彼らへと御自身についてどう思うのかと問われました。その時、弟子ペトロは「あなたは、メシアです」と、“あなたは聖書に記され、私たちが待っていた約束の救い主です”と、言い表したのです。
ペトロは、非常に人間味あふれる人物として聖書に記されています。たとえば、湖の上に立たれる主イエスのもとに行こうとして沈んだり、また、“命を失おうともあなたに従います”と誓った直後に、“わたしはイエスなど知らない”と人々に語り、逃げ去ったとも書かれています。彼の姿には誰しもが持つ弱さが映し出されています。しかし、そのようなペトロが、「あなたは、メシアです」と告白したのです。それは、これまで語られてきた御言葉の種が芽吹き、一つひとつの御業を目撃することによって茎が伸び、ついには信仰という実が結ばれるという、ペトロの内に現された神さまの御業だったに違いありません。
人の持つ弱さを超えて、御言葉を聞いた者を通して、神さまの御業が現されていく。私たちはこの奇跡を真っ先に目撃する者、御業を現す器として用いられていく者とされていることを覚えつつ、主の御言葉に耳を傾けたいのです。
さて、ペトロは主イエスを約束の救い主だと言い表しましたが、この直後には、御自身の歩みの先に待つ受難について教えられた主イエスを押しとどめようとして、叱られることとなります。神さまのみもとから遣わされた主イエスだからこそ果たさなければならない使命がありましたが、ペトロや他の弟子、また世を生きていたユダヤ人の願いは、そのような神さまの御心から遠く離れていたのです。
本日の御言葉で、主イエスは弟子たちへと再び受難予告をされました。
「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(9:30-32)。
先週もお話ししましたが、主イエスの旅が始められて以来、その歩みは人々に大きな衝撃を与えていきました。御言葉によって神さまの恵みを教え、病気を癒し、人を苦しめる悪霊さえも従えて追い出される。さらには、皆に嫌われ遠ざけられていた人と出会い、触れ、共に歩もうと声をかけられ、当時の指導者たちの在り方については、神さまの御心から離れていると、はっきりと語られる。これまで、誰もなしえなかったことを果たされる姿は、人々に長い間待ち望んでいた救い主を連想させたことでしょう。
神さまの恵みを受けると約束されたはずのユダヤ人は、外国の監督下で、住んでいた土地に外国人が流れ込んで追いやられ、肩身の狭い思いをしつつ生活をしていました。宗教的な指導者たちは掟や戒律ばかりを教えて指摘し、“守れない者には救いはない”と語るばかりで、人々は神さまの恵みが感じられない信仰生活を送らなければならなかったようです。そのような日々に長い間耐えつつ生きていた人々だからこそ、主イエスに大きな期待を寄せたのです。それは、弟子たちも同様でした。もはや何者も、主イエスの行く手を阻むことはできない。この方が皆の王として君臨する日も近いとすら思っていたことでしょう。
その時、主イエスは、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(9:31)と、弟子たちへと2度目となる受難予告をされたのです。人の命が失われてしまえば、生き返ることができないことはこの世の常識ですし、指導者が死んでしまえば、すべての希望は失われてしまいます。ペトロが1度目の受難予告の際、主イエスの御言葉を遮ったのはそのためでしょう。ただ、それに対して、主イエスが「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(8:33)と、厳しい言葉をもって叱られたため、2度目であるこの時には「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(9:32)のだというのです。
「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」(9:33,34)。
主イエスは御自身が何者であり、これから何を果たすのかを弟子たちに教えられましたが、彼らは怯え、口を閉ざします。主イエスは、それ以上語られることなく、一行はカファルナウムという村に到着しました。
その道中、弟子たちは何やら言い合いをしていたようです。主イエスが「途中で何を議論していたのか」と尋ねられても、誰も口を開こうとはしませんでした。悲しいことに、弟子たちは主イエスの御言葉の意味を考えることなく、自分たちの中で「だれがいちばん偉いか」ということで議論をしていたのです。
「罪」は、ギリシャ語で「αμαρτία(ハマルティア)」というのですが、これは「的外れ」を意味する言葉です。神さまの御心から離れる弟子たちの的外れな議論こそ、罪と呼ばれるものであることを知らされます。
ただ、もし実際に私たちが弟子として共に歩み、主イエスに受難について教えられたならば、その御言葉をすぐに受け入れ、信じることができたのでしょうか。きっと、最愛の指導者である主イエスが殺される姿を想像するだけで苦しくなり、そのようなことはあってはならないとも思うはずです。そして、死の後に復活すると語られたとしても、意味が分からなかったでしょう。人は、理解を超えた問題を考える時、思考停止し、他の事を考え出すと言われます。弟子たちの議論とは、そのようなものであったのかもしれません。いずれにしても、弟子たちと同様に、誰しもが的外れに生きてしまう可能性をもっています。そして、誰しもが背負う罪をすべて赦し、再び神さまとの関係が結ばれるためには、主イエスの十字架の出来事がなくてはならなかったのです。
人は的外れな生き方を避けることはできません。何から外れているのか。神さまの御心からです。的を外さずに生きたいと願っても、世を創られた神さまの御心は到底計り知ることはできません。そして、何よりも私たちの常識こそが、御旨を理解しようとする思いを阻んでしまいます。
しかし、いかに弟子たちが見当はずれな行動を重ねようとも、主イエスは御言葉を語り続け、最後には御自身に与えられた“十字架の死と復活”という使命を果たされたのです。それは、罪を重ねる人の歩みを見ても諦めず、見捨てられることもなく、神さま御自身が責任を持って一人ひとり引き受けてくださったことの証しです。正しく生きているから認められるのではなく、清いから救われるのでもなく、罪を背負った私たちをそのまま引き受け、愛し、恵みを与え、道に伴ってくださる方こそ、私たちの神さまなのです。
使徒パウロは語ります。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)と。私たちは今、聖書を手にし、主日礼拝では御言葉が語られ、祈りつつ歩んでいます。すなわち、神さまの御心は常に私たちに語られているということです。道に迷うことや苦しさに自分自身を見失うこと、的外れな生き方をしてしまうこともある私たちだからこそ、すべてを委ねて御言葉に聞いていきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン