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世を治める主

マルコによる福音書3章20-30節 3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

カミュやドストエフスキーなど、文学の世界では、永遠に続く罰について取り上げられています。ある罪についての罰であれば、そのとき限りの話題で終わってしまうでしょうけれども、それが永遠に続くところに、時代を超えて人々をひきつけるわけがあるように思います。

償いきれない罪を一生背負い続けるということは、いかに苦しく、生きることを困難にするでしょうか。それが死によっても清算されず、永遠の罰として与えられるならば、これほど恐ろしいものはありません。何もない人生などないように、その歩みの中で、人は何かを背負いつつ生きてまいります。だからこそ、永遠の赦しについて語られる主イエスの御言葉に聞いていきたいのです。

「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」(マルコ3:20)。

先週の御言葉の終わりには、「イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」(3:9)と記されていました。安息日に、会堂で手の萎えた者を癒された出来事を含め、これまで誰も成し得なかった御業を現された主イエスへと、多くの人々が最後の希望を託し、押し寄せたというのです。

その後、主イエスは山に登られ、12人の弟子を任命されました。「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)と言われる通り、主イエスお一人ではすべての人を癒すには時間がかかったためでしょうか。神さまが造られた世界の地の果てまで、御業を現していくための器として、ここで共に働く使徒を選ばれたのです。

主イエス一行が、山から下りて家に帰られると、またもや続々と人々が集まってきました。主イエスと共に12人の使徒が神さまの御業を現していこうとも、食事をする暇もないほど多くの人々が、癒しを求めていたのです。

「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」(マルコ3:21,22)。

ただ、そこには主イエスを良く思わない人々もいたようです。主イエスの身内の人々は、マリアとヨセフの子どもとして成長していくイエス少年の姿を見てきました。30歳になるまで村に留まっていた若者イエスが、急に神さまの御言葉を語り伝え、病気を癒し、悪霊を追い出しているとの噂を聞いたならば、困惑したに違いありません。そこで彼らは、一族の名を汚す事態にならないように、主イエスを取り押さえに来たのです。

また、これまでの主イエスの歩みに反感を持っていた律法学者たちは、癒やしの出来事を見聞きしたとしても、その救いの出来事に関心を寄せることはせず、わざわざエルサレムから追いかけて来てまで、突然現れたイエスという人物の正体を暴くことに関心を向けていたのです。そして、“主イエスの御業の力が、一体どこからくるのか”と、考えました。たとえ、どれだけ恵み深い御言葉を語り、多くの人々を助けようとも、律法を最優先にせず、安息日の規定すら守らない主イエスを、神さまの働き人として認めることは彼らにはできませんでした。そして、律法学者たちは、“イエスは、異教の神であるベルゼブル(バアル・ゼブブ)に取りつかれており、悪霊の頭の力で悪霊を追い出しているのだ”と、結論づけたのです。

そのように訴える人々を呼び寄せて、主イエスはたとえを用いて話されました。

「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(3:23-27)。

取りつかれているということは、ベルゼブル(異教の神)の支配下にあるということであり、また、もし悪霊の頭であったとしても、悪霊には違いありません。その場合、大きさは違えども、他の悪霊と同様の力しか持ち得ないということです。それでは、到底悪霊を追い出すことはできないと、主イエスは言われます。すなわち、主イエスを通して現された御業によって人を捕える悪霊が追い出されているならば、それは、頭であるサタンが既に縛り上げられている証拠にほかなりません。

神の国が近づき、悪霊の頭であるサタンが、神さまによって縛られているからこそ、主イエスは神さまの御業をもって悪霊を追い出すことができるというのです。主イエスは、たとえ話を通して、御自身の行う御業は“神さまの御力”によるものであることを示されました。つまり、“約束された通り、神の国は近づき、神さまの支配がすでに人々の間におよんでいる”という福音を、正体を暴くことのみに関心を置く人々へと告げられたのです。

そして、続けて語られます。

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(3:28-29)。

全能の神さまのもとから遣わされた主イエスであるからこそ、悪霊に対して御言葉を語りうるし、また悪霊もその言われることを聞きます。同時に、神さまから遣わされた主イエスであるからこそ、人々を癒やし、また罪の赦しを語りうるのです。その御業の力がどこから来るのかを知らされた上で、それでもなお主イエスを受け入れない者は、神さまと等しい聖霊をも否定することとなります。聖霊の働きから目を背け、離れ去るならば、その者は永遠に赦される機会を自ら手放すことになるというのです。

しかし、立ち返って御言葉に示される神さまの御心を信じるならば、「罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」(3:28)と、主イエスは言われます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(ヨハネ3:16-18)と言われる通り、徹底的に赦し、共に歩もうと近づいてくださる神さまの御心に、私たちは立ちたいのです。

作家たちが取り上げた永遠に続く罰は、希望を見出せないことを繰り返す生活や、死を待つだけに過ごす生でした。“その中で、人は希望を見出し得るのか”を問うたのです。

罪を背負ったままでは、人は新たに歩み始めることができませんし、罪を犯さない生活だけでは希望にはなりません。赦しの向う側に希望はあるのです。

「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」(マルコ3:28)。

主は、これまでの歩みをすべて御存知の上で、御子の命と引き換えにしてまで、私たちを赦してくださるのです。“あなたのことはすべて知っている。それでも、あなたを赦そう”。揺るぎない主の赦しの中を、私たちは新たに生き始めたい。この神さまの御心を、生きるすべての人へと伝えていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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