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主の安息日

マルコによる福音書2章23-28節

2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

ルーテル教会の暦の1年は、主イエスのお生まれから始まり、宣教の旅、十字架の死と復活、昇天、その後に聖霊が遣わされたことを記念するペンテコステの出来事と順に進んでまいります。このように12月より、救い主のこの世への訪れから、“主イエスの昇天の後に聖霊を遣わす”との神さまの御心が果たされた出来事が語られてきました。そして、“神さまがどのような方であるのか”を知らされた私たちが、聖書の御言葉によって心を耕され、豊かにされていく時として、「聖霊降臨後」の季節が備えられているのです。

これまで、マルコ福音書の2章を読み進めてまいりました。聖書で禁じられているにもかかわらず異教徒と関わり、同胞から利子を取る者が居たことで、罪人と呼ばれていた徴税人。その徴税人として働いていたレビを弟子として招き、家で食事を共にする主イエスを見て、周囲の人々が“なぜ、彼は徴税人や罪人と食事をするのですか”と弟子たちに尋ねた出来事。その後には、人々から“あなたの弟子たちは、なぜ他のユダヤ人たちのように断食をしないのか”と、主イエスが問われる場面が記されていました。当時の指導者たちは、徴税人や罪人と同じ者に見られることは耐えられないことであり、信仰者としての姿を見せるために断食をしていたようです。人々の前に姿を現され、弟子を招いて旅をされる主イエスの歩み、その生き様が、想像や期待とはかけはなれていたために、人々は主イエスへと“なぜ”と問うていくのです。

本日与えられた御言葉にも、主イエスに対する人々の“なぜ”が記されています。私たちは、これらの対話を通して、人の常識では理解できない神さまの御心を、主イエスの御言葉によって受け取りたいのです。

「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』と言った」(マルコ2:23,24)。

初めの日課で読んだ通り、聖書には“安息日を大切にしなさい”という掟があります。神さまが天地を創造された際、7日目に休まれたことを覚え、この「安息日」には、主人も、その家族も、奴隷も、家畜も、外国から来た者も休むように言われていました。ですから、徹底的に安息日を守るために、多くの禁止事項があったのです。たとえば、煮たり焼いたり外出することの禁止(出エジ16:23-30)、耕すこと、刈り入れること禁止(34:21)、火を焚くことの禁止(35:1-3)、たきぎを集めることの禁止(民15:32,36)、荷を運ぶことの禁止(エレ17:21-22)、商売の禁止(アモ8:5)など、非常に細かく分けられていました。また、安息日には約880mの範囲しか行動を許されていなかったようです。1週間に1度、土曜日(ユダヤでは金曜日の日没から土曜日が始まる)に安息日は守られ、人々はすべての仕事を休んで会堂に集い、神さまへと礼拝をしていました。

ある日、主イエスの弟子たちは、麦畑で麦の穂を摘み取っていたようです。聖書にも、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。……これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(レビ19:9-10)という掟がありましたから、その行動に問題はなかったはずです。けれども、この日は安息日でした。そこで、ファリサイ派と呼ばれる指導者たちは、弟子たちの姿を見て「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と主イエスへと問いただしたのです。

聖書に記されていた救い主のように現れた主イエスに一目を置いていたものの、旅の中で徴税人を弟子としたり、信仰者に当然のように守られていた断食をしなかったりと、理解できない行動をするため、ファリサイ派の人々は主イエスを危険視し始めていたのでしょう。本来ならば、外出の禁止や行動範囲が定められている中、旅をしていることを責めるべきところを、“弟子たちが麦の穂を拾う労働をしている”と、言いがかりのように詰め寄るのです。

「イエスは言われた。『ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。』そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある』」(マルコ2:25-28)。

ファリサイ派の人々が大切にしていた聖書の中から、“かつて、イスラエルの王となったダビデは、祭司しか口にしてはならない神さまへの供え物のパンで空腹を満たし、仲間にも分け与えた”と語り、主イエスは言われました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」と。神さまによって備えられた安らぎの日であるにもかかわらず、細かい禁止事項によって人々は縛られ、不自由に暮らさなければなりませんでした。しかし、主イエスは、“神さまの掟は人を縛りつけるものではなく、人を豊かに満たすためにあるのだ”と言われたのです。

そもそも、十戒に記される安息日の掟には、次のように書かれています。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジ20:8-11)。

神さまは、形づくられた一人ひとりを、後の歩みのすべてに眼差しを注いでくださるほど、大切に想われているにもかかわらず、人は神さまを忘れ、他者を自らの所有物のように扱いました。その時、家の主人が休まなければ、当時主人の所有物とされていた家族や奴隷、家畜は休むことができません。しかし、神さまの与えられた掟によって、一人ひとりに平等に安らぎの時が備えられたのです。だからこそ、主イエスは、時代の流れと共に禁止事項が加えられ、人を縛りつけるものとされてしまった掟や律法の真の意味、本来そこに示されるはずの神さまの御心を、ファリサイ派の人々へと教えられたのです。

後に、この安息日の問題によって、指導者たちの関心は“神さまの御心を聴くこと”ではなく、“秩序を乱す者の排除”へと向いていきました。そして、“イエスという人物は、神さまを冒涜している!”と議論され、主イエスは十字架にかけられることとなるのです。

律法や掟が行き着くところは、主イエスの十字架の死と復活であることを思い起こしたいのです。どのような努力をもってしても神さまから離れてしまう人の罪をすべて引き受け、身代わりとなってくださった。復活されることで“主イエスの十字架は私のせいだ…”という負い目すらすべて拭い去り、死の先にある永遠の命を示してくださった。これが、神さまの出された答えなのです。裁くためではなく愛するために、主イエスをこの世へと遣わせて下さったのであれば、律法や掟に戸惑ったり、縛られたりする時、主イエスこの方を見上げたいのです。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(2:27,28)。

「御子イエスは安息日の主」、「花婿(御子)が一緒にいる限り、断食はできない」(2:19)のと同様に、御子に仕え、御子に聴くことこそ、安息日にすべきことであったのです。

私たちの安息日は土曜日ではなく、主イエスの復活された日曜日です。主が備えてくださった安らぎの日に、私たちも主の御心を聴くために集い、主に従う新たな1週間へと派遣されて行きたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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