罪人を弟子とする
マルコによる福音書2章13-17節
2:13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 2:14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 2:15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 2:16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 2:17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
聖霊降臨祭(ペンテコステ)以降に続いていく「聖霊降臨後」の主日は、ルーテル教会の一年の暦の中でも、もっとも長い期間です。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマス、公生涯の終わりである受難と十字架、その三日目に復活されたことを祝うイースター、そして昇天されたキリストより約束された聖霊に弟子たち一人ひとりが満たされたというペンテコステの出来事。これらの後に来る聖霊降臨後の主日において、私たちは主イエスの御言葉の一つひとつを思い起こしつつ、歩んでいくのです。緑色の聖壇布は、成長や豊かさを表す色です。私たちが御言葉に養われ、豊かにされ、力づけられていく時が、今、備えられているのです。
さて、本日与えられた福音には、アルファイの子レビという徴税人が登場いたします。この人物は、マタイ福音書には、「レビ」ではなく「マタイ」という名前で記されています。聖書に登場する“弟子の召命”の中で、最後に弟子として招かれた者でもあります。
主イエスが宣教をしておられた時代、ガリラヤ地方の町々は、外国であるローマの監督の下に置かれていました。植民地の状態です。そのため、ユダヤの人々はローマへと税を支払うように義務づけられ、その他にも通行税などを徴収されていたようです。少しでも不満を分散させるためでしょうか。ローマは、ガリラヤ地方にローマの監督者は置いたものの、収税権を高い金額で売り、それぞれの町の者を徴税人として立て、役割を与えたのです。徴税人としても、ローマに収めるべき金額以上を取り立てれば、後は自らの財産が増える一方ですから、両者にメリットがありました。たとえ、ローマから高い金額を払って収税権を買ったとしても、十分に元が取れるだけでなく、後の生活や、権利を相続することで子どもの将来まで保証される職業であったと言えます。
ただ、収税はユダヤの国のためではなく、自分たちを抑圧するローマのための働きです。異教の神を信じる者と交わりをもつことや、規定の金額以上を同胞から取り立てることを聖書は禁じていましたから、同胞のユダヤ人からは嫌われ、ファリサイ派や律法学者などからは、神さまへの背きを責め立てられ、罪人だと言われていたはずです。
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」(マルコ2:13,14)。
レビが収税所に座っていたということは、彼自身の仕事をしていたということです。彼は、収税のために人を呼び止めますが、しぶしぶ税を支払った人々は、世間話をするわけもなく、すぐにレビのもとから去っていったでしょう。収税以外の日常では、誰もが彼の前を立ち止まることなく通り過ぎ、人と関わる機会は限りなく少なかったに違いありません。自ら選んだ道であったとしても、いくら財産が増えようとも、石ころのように人々に無視され、通り過ぎられる人生とは空しいものです。
そのように虚しさを生きるレビの前に、主イエス一行が現れたのです。群衆が後に従うほど主イエスの噂は広まっていましたから、レビ自身も興味をもっていたことでしょう。すると、人々の注目の的である主イエスが急に、レビの前で立ち止まったのです。誰もが通り過ぎていってしまう日々の中で、主イエスは立ち止まり、「わたしに従いなさい」と招かれた。この主イエスの招きが、レビの人生を大きく変えることとなりました。突然の呼びかけにもかかわらず、彼は将来の安定をすべて捨ててでも立ち上がり、主イエスの御後に従ったのです。
「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」(2:15-17)
徴税人レビを弟子として招いた後、主イエス一行は、彼の家で食事をしました。そこには、他の徴税人や罪人が多くいたと記されています。日本では、「同じ釜の飯を食う」という言葉があるように共に食卓を囲むことは、大切にされています。同じように、この地域でも食事には“親密である証し”としての重要な意味がありました。だからこそ、ファリサイ派の律法学者は、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、弟子たちに尋ねたのです。けれども、徴税人を弟子とし、罪人と食事をする主イエスの想いを、まったく理解できなかった弟子たちは答えることができませんでした。そこで、主イエスは言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。罪人と呼ばれていた徴税人を主イエスが弟子として招いたことに、ユダヤ人である弟子たちは驚き、嫌悪感すらいだいたことでしょう。弟子たちにとって、自分たちが徴税人や罪人と同等に見られることは、耐え難いことであったはずです。
当時、イスラエルの地域には、ギリシャ文明が流れ込んできており、至るところにギリシャの小都市がありました。その都市の隣で生活を守っていたユダヤ人は、非常に肩身の狭い生活をしていましたし、同胞の中には異邦人の奴隷としての生活を強いられている者もおりました。すべての原因は、ローマ帝国にあったのです。そのような中で、ユダヤ人たちは、聖書に記される救い主を、日々待ち望み、“いつしか、自分たちの国を再建してやる!”と、苦しみに耐えつつ、野望を抱いていました。そういった意味で、指導者としての主イエスの存在は、彼らにとって重要だったのです。“この人こそ、私たちへと勝利を与え、国を建て直してくださる王に違いない”と、意気込みつつ、すべてを捨てて主イエスに従っていた者も少なからずいたはずです。
けれども、人々の期待とは異なり、主イエスは貧しい人々や、罪人と呼ばれる人々と出会い、共に歩んでいかれるのです。勇敢さや力強さとは程遠い姿に、国の再建を期待する人々は、拍子抜けすることもしばしばあったはずです。だからこそ、徴税人レビの召命と食事会は、人々には理解できない出来事だったのです。
しかし、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という御言葉に、主イエスの覚悟が示されるのです。人の目から見れば、ただ思いつきのようにレビの前で立ち止まったように見えたとしても、主イエスは人の思いや理想を満たすためではなく、神さまの御心の実現のみに心を注がれるのです。
罪人を弟子とするということは、主イエス御自身も、“今後の人生において、罪人の一人として数えられるようになる”ということです。それを受け入れ、“罪人と呼ばれたとても彼と共に歩みたい”という覚悟をもって主イエスは立ち止まり、呼びかけられたのです。ここに、主イエスの揺るぎない神さまへの信頼と、御心を地上に現そうとされる強い意志があります。罪人を弟子として招くことは、御国での宴(神のもと)においても、罪人も徴税人も共にいることの確かなしるしなのです。
私たちの主は、たった一人の罪深い小さな者の前で立ち止まり、招いてくださる方です。わたしの前で、あなたの前で、主は立ち止まり、「わたしに従いなさい」と招いてくださったからこそ、今、御言葉に心を向け、主に従う者とされているのです。大きな覚悟をもって、主は私たちを弟子としてくださったにちがいありません。だからこそ、私たちは、主の呼びかけに答えて立ち上がりたい。今度は、苦難を生きるたった一人のために、主と共に立ち止まる者となりたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン