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互いに愛し合いなさい

ヨハネによる福音書15章11-17節

15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

主イエスは、弟子たちと共に食卓を囲んだ「最後の晩餐」において、多くの御言葉を語られました。人々に捕えられた後に待ち受けるのは、過酷な拷問と十字架刑による死です。すべてを御存知であった主イエスは、指導者を喪い、御自身と同様に人々に命を狙われつつも、神さまからの召命を生き抜くこととなる弟子たちへと、最後に伝えておくべき神さまの御心を語られました。いわば、主イエスの遺言です。ヨハネ福音書15章は、この最後の晩餐で語られ、主イエスとの別れの後に始まる弟子たちの伝道旅行において、彼らの足を支え、力づけていくこととなります。主イエスが、最後にどうしても弟子たちへと伝えたかった御言葉から、私たちも聞いていきたいのです。

先週、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15:5)という御言葉を通して、主イエスは、御自身と信仰者との確かな繋がりについて語られました。ぶどうの木につながる枝が切り離されてしまえば枯れるように、私たちも主イエスとの繋がりを無くしては、農夫である神さまの求める実であることはできません。主イエスは、私たちが与えられた命の中で、信仰によって神さまの栄光を顕す実りであるように、“御言葉を通して神さまの御心に立ち、わたしというまことのぶどうの木に留まりなさい”と招かれます。私たちが“正しく生きる”とか、“生きられない”とかにかかわらず、すでに神さまによって手入れされ、主イエスに繋がれた者として生かされ、今この時も、神さまの実りとして必要な御言葉と聖霊という糧を、主イエスを通して私たちの内に、さらに私たちお互いの間に送られていることを覚えたいのです。

さて、本日の御言葉は、先週に続く内容として語られています。

「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:11,12)。

主イエスは、約3年間に渡る伝道の旅の中、あらゆる場面で神さまへと祈っておられたことを思い起こします。特に、新たな決断をなさる時には、ひとりで祈ることから始められました。そして、道中で話された多くの御言葉は、“すべて祈りを通して、わたしに直接語られた神さまの御心だ”と言われました。また、言葉のみにとどまらず、行動においても、神さまの御心がその中心にありました。苦しむ者に歩み寄り、その手を取られた出来事も、病に伏す者を癒された出来事も、“すべて神さまがそのように望まれた”という一点によって、押し出され、主イエスは御業を現していかれたのです。このように、主イエスは、御自身の想いを後ろに押しのけ、神さまの御心を人生の中心に据え、これまで歩んで来られました。神さまの喜びを、自らの喜びとする。それほどまでに強固な関わりが、神さまと主イエスの間にはあったのです。

だからこそ、主イエスは、弟子たち一人ひとりが御自身と同様に神さまの愛を確かに受け取ることができるように、御心が果たされる喜びが彼らの喜びとなるように、最も大切な掟を教えられたのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(15:12)と。神さまの愛に満たされた主イエスは、弟子たちを愛されました。主イエスを通して、神さまからの愛を一身に受けた弟子たちだからこそ、“互いに大切にし合いなさい”と言われるのです。

世にある宗教には、「~をしてはならない」という多くの戒めがあります。人の行動を規制することで、正しく歩むべき道へと導いていくことが目的なのでしょう。しかし、主イエスは、罪を犯す道を断ち切っていくのではなく、「互いに愛し合いなさい」という神さまの御心を伝え、命をかけてその道を全うすることを通して、歩むべき道筋を切り開いてくださいました。人を縛るのではなく、神さまによって与えられた命を、一人ひとりの賜物を最大限に活かしながら、積極的に“神さまの御業を現す”という豊かな実りに与る道を教えてくださったのです。

私たちには、自らの想いに立つのか、はたまた、神さまの御心を中心に据えるのかを選択する自由が与えられています。主イエスという“まことのぶどうの木”に留まりたいと願う私たちは、もはや神さまの御心から目をそらすことはできないのです。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15:13-15)。

聖書の御言葉を誤解し、最も苦しむ者から神さまの愛が奪い去られてしまった世界へと、主イエスはお生まれになりました。ローマ帝国の支配の中で、肩身の狭い思いをしている人々の間でも、人が人を裁き、社会的な格差や差別が生まれていたのです。主イエスが本来の御言葉の意味を伝えようとも、“神さまを冒涜する者”とのレッテルを貼り、社会から排除しようとする者たちがいました。最終的に、宗教的権力を持っていた者たちの扇動によって、主イエスは、人々から十字架にかけられてしまったのです。神さまから離れる人の罪は、主イエスの命で清算するしかないほど重く、世界に満ちていました。神さまは、そのことを御存知の上で、主イエスをこの世へと遣わされ、主イエスもまた、すべてを受け入れ、御自身の生涯を歩み抜かれたのです。

人々に捕えられる直前に、主イエスは、弟子たちへと御言葉を話されました。“僕は主人の想いを知らない。しかし、あなたたちには神さまの御心をしっかりと伝えたのだから、わたしはあなたがたを友と呼ぶ”と。天から降られた方は、御自身をさらに低くし、罪を背負う一人ひとりの友となってくださったのです。十字架の死は神さまの御旨であり、この世界に生きるすべての人を神さまに再び結び付けるために必要不可欠なものでした。私たちのために、これ以上に大きな愛はないと言われる“命がけの愛”を、主イエスは身をもって示してくださったのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(15:16,17)。

私たちは、それぞれ何かしらのきっかけがあって、教会につながる者とされました。毎週の主日礼拝へと集い、御言葉に心を向けつつ、日々の生活を送っています。しかし、教会に通うか・休むか、聖書を開くか・開かないか、祈るか・祈らないかは、私たち一人ひとりが選択できることも事実です。自らの想いに立つか、神さまの御心を中心に据えるか、ということと同じように、私たちにはここでも選択する自由が与えられているのです。

しかし、忙しい日々の中でも、嵐の日にも、私たちが毎週礼拝に足を運ぶのはなぜでしょうか。その答えは、この場に集うお一人おひとりの内とお互いの間にあるはずです。そして、それは主イエスの御言葉と重なるのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)。私たちは、自ら選んでこの場に立っていること以上に、神さまからの招きを感じます。イソップ物語ではありませんが、私たちを真に捕えるのは縛り付ける戒めではなく、この身を丸ごと、その世界を丸ごと包み込むような深い愛であることを知らされます。

「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(15:17)。

私たちは、主イエスのように24時間365日、神さまの御心に生き続けることはできず、自らの望みを中心に据えてしまうことがありますし、神さまの願う道とは正反対の方向に進むこともあるかもしれません。しかし、主イエスはそれでも私たち一人ひとりを御自身の枝として結びつけ、神さまの栄光を顕す実りとして必要な糧を送ってくださいます。神さまに顔向けできないほどの自らの脆さや弱さと向き合わなければならない時も、「わたしがあなたがたを選んだ」と語りかけてくださるのです。どれほど離れていようとも探し出し、その御腕に迎えて抱きとめてくださる主に、この身を委ねたい。それほどに大切にされている私たちであるからこそ、たった一つ、「互いに愛し合いなさい」という主の御言葉と御旨を顕すために尽くしていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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