主の派遣
マルコによる福音書16章9-18節
16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。 16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。 16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。 16:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
先週、私たちは復活祭(イースター)を迎え、主イエスの復活を共に喜び祝いました。キリスト教会では、主イエスが十字架にかけられ、死んで葬られ、そして三日目によみがえったと信仰告白を致します。教会に集う一人ひとりが、復活信仰に立っているため、復活祭(イースター)は最も大切なお祭りなのです。
今一度、主イエスの復活を思い起こします。主イエスは無実であったにもかかわらず、「十字架につけろ!」との人々の叫びによって、最も残酷な十字架刑を言い渡され、ひどい仕打ちを受けられました。主イエスがボロボロの体で丘の上へと十字架を背負っていく中、最も近くで御業に驚き、御言葉に感動していたはずの弟子たちは皆逃げ去り、人々に捕えられることを恐れ、家の鍵を閉めて隠れました。女性たちもまた、なす術のないまま十字架を見つめていたのです。最終的に、息を引き取られた主イエスを十字架から降ろしたのは、一人のファリサイ派の議員でした。
金曜日の夕暮れが近づき、墓に葬ることはできたものの、安息日である土曜日になる直前であったため、しっかりと別れを告げることもままなりませんでした。当時は、日没から新しい1日が始まると考えられていたためです。ですから、安息日が明けた次の朝早く、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、主イエスの墓へと急いで向かいました。遺体へと香油を塗ることが、死者を弔う方法だったからです。
彼女たちが墓に到着したとき、入り口の大きな石は転がされていました。中に入ってみると、右手に白い長い服を着た若者が座っており、主イエスが復活して墓にはおられないこと、そして、弟子たちをガリラヤで待っておられることを、女性たちに告げたのです。弟子たちに伝えるように言われたものの、死者が生き返るなど、到底信じられません。しかし、主イエスの遺体が実際に無くなっているのです。彼女たちは怯え、その場から逃げ去り、この出来事を誰にも言わなかったというのです。
マルコ福音書は、本来この出来事までしか記されていなかったと言われています。空の墓こそ、主イエスの復活のしるしであり、勇気を振り絞って伝えたであろう女性たちの証しが、復活の主イエスと出会うために、宣教の出発点であるガリラヤへと、弟子たちを押し出していくのです。マルコ福音書の著者は、最後を出発点であるガリラヤという場所に結びつけることで、読者へと再び読み始めるように促すのです。それはまさに、私たちの教会暦のように、主イエスの歩みを辿るごとに、一人ひとりの内に信仰を増し加えていったことでしょう。
では、本日の御言葉である箇所は、何のために、誰が書き足したというのでしょうか。たしかに、マルコ福音書の著者が記したように、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8)という御言葉では、“その後、復活の主イエスはどうされたのか”という疑問が生まれます。主イエスの復活を信じて集った当時の教会が、そのような疑問へと答える形で、ルカ福音書、マタイ福音書に結び付け、書き加えたと考えられるのです。すなわち、“復活を信じる者たちの、教会としての信仰告白が記されている”と言っても過言ではありません。〔 〕で書かれているのは、そのような背景があるからです。
復活の主イエスが、どのように歩まれたのか。私たちは、紀元100年頃の教会の信仰告白より、聞いていきたいのです。
「〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」(16:9-13)。
主イエスは、空の墓を目撃した内の一人であるマグダラのマリアに、復活された御自身の姿を現されました。弟子たちが人目をはばかって身を隠す中、彼女はこの出来事を告げるために、主イエスの死によって嘆き悲しむ人々のもとを訪れました。けれども、彼らは彼女の言葉を聞いても、信じなかったというのです。
また、主イエスは、田舎(エマオ)へと向かっている2人の弟子たちへと、復活された姿を現されました。指導者が死んでしまい、失意の中旅立った2人の弟子たちは、道中で主イエスと出会ったことを知らせるために、再びエルサレムへと戻りました。けれども、マグダラのマリアの時と同様に、嘆き悲しむ人々は、信じなかったというのです。
「復活」が、いかに人間にとって受け入れがたいことであったのかが分かります。“実際に目で見なければ、その傷に触れなければ信じることはできない”と語ったトマスの言葉は、人々の胸の内を代弁しているかのようです。死という越え難い壁の前で、皆嘆き悲しむほかなかったのです。
「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る』」(16:14-18)。
指導者を失い、仲間という理由で人々に捕えられることを恐れ、11人の弟子たちは家にこもっていました。主イエスは、神さまの御言葉ではなく、死に支配され、嘆き悲しむ弟子たちのもとを訪れ、その不信仰と頑なな心をお咎めになりました。自らの身を守ろうとする思いによって、語られた御言葉、空の墓が示す復活、そして、復活された主イエスと出会った者たちの証しを、信じられなかったからです。
しかし、主イエスは復活によって、死という最大の壁を打ち崩されました。もはや、神さまの御心は、なにものにも阻まれることなく果たされていくことが証しされたのです。主イエスは、家に鍵をかけて引きこもる弟子たちへと、神さまによって与えられた大切な使命を、教えられたのです。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16:15)。
これまで語られた神さまの御言葉、その良い知らせを告げるようにと、弟子たち一人ひとりには使命が与えられているのです。そして、悪霊を追い出して、新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治るなど、信じて洗礼を受ける者には、“神さまの御業が現れる”というのです。
私たち同様、紀元100年頃の教会でも、天に昇られた復活の主イエスに、実際に出会ったことのある者はいなかったはずです。“見なくとも、信じる”ということの困難さに、突き当たっていたに違いありません。復活の主イエスが人々の前に姿を現されたこと、また、弟子たち一人ひとりを世界へと派遣される出来事は、彼ら一人ひとりにとって重要なことだったはずです。だからこそ、マルコ福音書においても、復活の主イエスの姿が記されたのでしょう。
私たちは、さらに2000年ほど経った今、主イエスの復活を信じ、歩む者たちです。実際に、復活の主の姿を見ることも、その御手に触れることも叶いません。しかし、聖書が、また、多くの信仰者たちの証しが、この世界には受け継がれ、今も語られ続けている。主の御言葉が、今も多くの人を支え、死の先にある永遠の命に期待させている真実を目撃しているのです。そうであるならば、信じる心を耕してもらえるよう祈り求めたい。主イエスの派遣の御言葉に押し出され、聖霊に満たされつつ、この世界へと福音を宣べ伝えていきたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン