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荒れ野の誘惑

マルコによる福音書1章12-13節

1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

四旬節を迎えた私たちは、これから“主イエスが十字架への道を歩んで行かれた出来事”を思い起こしつつ、礼拝の時を過ごしてまいります。灰の水曜日(今年は2月18日)から、復活祭であるイースターまでの40日間に渡って、主イエスの苦難を想起し、歩んで行くのです。それは、本日の御言葉で語られた「荒れ野の誘惑」、すなわち、主イエスが40日間に渡って誘惑を受けられた日々と重ねられているのです。

「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(マルコ1:12,13)。

マルコ福音書の著者は、非常に簡潔に記しています。聖霊によって送り出された主イエスは、荒れ野にとどまる間にサタンから誘惑を受けられましたが、仕えていた天使によって、主イエスは誘惑に陥らず、野獣に襲われることもなかったというのです。しかし、何事もなく40日間が過ぎ去ったわけではありあせんでした。マタイ福音書は、さらに詳しくサタンの「誘惑」について語っています。

サタンははじめに、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)と空腹を自ら満たすように呼びかけます。次に、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある」(マタイ4:6)と語り、神殿の屋根の端に立たせた主イエスへと、“神の子である証しを示してみろ”と求めるのです。そして、最後に、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタイ4:9)と、全世界の支配者となる権利を手渡そうとしたというのです。

空腹と心身の疲れによって打ちひしがれる主イエスに対して、“神さまから力が与えられているならば、その御業で自らを満たせばいい。今、私に従えば、この世界の支配者にしてやろう”と、サタンはささやきました。すなわち、主イエスに、神さまから離れても、まるで主ご自身に力があるように思わせ、自らを中心として生きる者になるように誘惑したのです。

私たちもまた、主イエスご自身に力があると思っている者たちです。しかし、主は、何事にも絶えず父なる神さまに祈り、伺いを立て、父の御心の現れを求めておられます。そうです!主イエスの御業は、父なる神さまの御心の現れであるのです。同様に、私たちの信仰も、神さまの御心が現れるようにとの祈りなのです。

一番恐ろしいのは、苦しみを重ねられることではありません。心の隙間に囁かれる甘い誘惑なのです。「悪が口に甘いからと/舌で抑えて隠しておき/惜しんで吐き出さず/口の中に含んでいれば/そのパンは胃の中に入って/コブラの毒と変わる」(ヨブ記20:12-14)と書いている通りです。人は、わざわざ苦しむ道を選択したくはありませんから、心に付け込むサタンのささやきを無視できないのです。

しかし、主イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある」(マタイ4:4)と答え、空腹であっても、食べ物以上に自らを生かす御言葉を求めておられるのです。次に、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(マタイ4:7)という御言葉を通して、自らを生かす方への信頼をサタンへと示されます。そして最後に、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある」(マタイ4:10)という御言葉を通して、自らを中心として生きる道を避け、神さまを人生の土台として歩む想いを告げておられるのです。神さまを忘れて自らの御力を現すのではなく、主イエスは自らを小さくし、神さまをより大きく捉え、信頼を語るのです。こうして、40日間に渡って耐え忍ばれた荒れ野での日々は、神さまに守られつつ終えられることとなったのです。

聖書は、主イエスの40日間の荒れ野での日々を語ることによって、「罪とは何であるのか」を私たちに問いかけます。ヘブライ語やギリシャ語で用いられる罪と言う言葉は、どちらも「的外れ」という意味を持ちます。神さまから離れ、自らを中心として生きる人の姿勢は全くの的外れであり、それこそが罪なのです。そして、主イエスは、罪を退ける方法は神さまへの信頼をおいて他にはないと御自身の歩みをもって示して下さったことを覚えたいのです。

私たちは、異なる生活の場で生き、それぞれに役割を担いながら歩んでいます。日常の中で、聖書を読まず、祈ることもせずに過ごすこともあるはずです。御言葉を受け取りつつも、自らの物差しを用いて人を裁いてしまったり、自らの願う方向に物事を推し進めてしまったりすることもあります。御言葉の力に養われ、主の深い愛の上に立つものの、神さまを忘れ、自らを中心として生きてしまう人の姿に罪は映し出されるのです。以前このような言葉を聞いたことがあります。“明るい時には照明がついていることには気づかないが、暗くなった時に初めて、人は照明があることに感謝する。神さまの愛も同じだ”と。自らの生活や家族を守らなければならないと考える限り、全ての時間や心のすべてを神さまに注ぐことはできません。「的外れ」にならざるをえないからこそ、一人ひとりが神さまの御前に罪を背負っていく存在であることを否定できないでしょう。だからこそ、私たちが主の御前に立つときには、まず罪の告白をし、飾らないありのままの姿を表す必要があるのです。

私たち日本福音ルーテル教会では、毎週、式文を用いた礼拝が行われています。その初めには、「罪の告白」があり、そこで私たちは主の御前に立つ者として、心身共に神さまに向かい、自らの罪を言い表します。すると、次に語られていくのは、赦しの宣言です。“神さま、ごめんなさい”と言った次の瞬間には、

「ひとりのみ子イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔いみ子を信じる者に、赦しと慰めとを与えて下さいます」(小倉)

「天の父、全能の神は、私たちをあわれみ、私たちのためにそのひとり子を死にわたし、これによって、私たちのすべての罪をゆるしてくださいました」(直方)との言葉が語られる。

私たちのすべての歩みを御存知であるにも拘わらず、主が私たちを大切に想われるが故に、無条件でこの罪を引き受け、赦して下さっている真実を知らされるのです。本来赦されないはずの的外れな人間を、その命をかけて引き受けて下さる主の深い愛を、私たちはしっかりと受け取っていきたいのです。

主イエスは荒れ野での40日間に渡る誘惑の中で、徹底的に神さまの信頼を言い表していかれました。自らを低くし、神さまの存在をより高く言い表していかれる主イエスの御言葉こそ、私たちが倣うべき姿勢でありましょう。

これから、復活祭に至るまでの日々には、主イエスの受難を思い起こしつつ、私たちは礼拝の時を過ごしてまいります。痛みや苦しみを背負っていかれる主イエスの十字架に向かわれるお姿は重苦しいものです。しかし、その受難の向かうところは絶望ではなく、復活という喜びです。そして、主の復活こそ、私たち一人ひとりの罪を拭い、神さまに再び結び付けるために果たされる御業です。

罪とは、神さまに背を向けることです。神さまから離れ、自らを中心して語られる言葉や行動、見てみぬふり。私たち自身の全ての罪の重さを思い起こし、悔いるたび、主の赦しはより大きな恵みとして、私たちの内に響き渡っていくのです。日々赦されていくことによって、私たちの内に増し加えられていく主への信頼に支えられながら、復活祭に至る四旬節の時を過ごしていきたい。主の受難の意味を考えていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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