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輝き

マルコによる福音書9章2-9節

9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

これまで、私たちは顕現節の時を過ごしてまいりました。遠い東の国でひときわ輝く星を見つけ、主イエスのお生まれを知った占星術の学者たちが星を頼りに旅立ち、到着したベツレヘムで、幼子イエスを礼拝しました。このことを通して、“イエス・キリストは、すべての人を照らすまことの光であり、世の光である”ということを覚えつつ、私たちは顕現節を過ごしてきたのです。

そして、次週より、私たちは四旬節を迎えます。四旬節とは、灰の水曜日(今年は2月18日)から、主日の礼拝を除いた復活祭(イースター)までの40日間を表します。この40日間は、主イエスが荒れ野で断食し、神から離れるよう誘惑を受けた日々と重ねられており、それと同時に、主イエスの生涯のクライマックス、伝道の旅の終わりの時である“十字架の出来事”を思い起こす時でもあります。私たちキリスト者にとって最も大切な時こそ、この四旬節と復活祭であるイースターです。私たちが毎週の主日礼拝で与えられる福音は、この主イエスの苦しみと十字架での死、そして復活があったからこそ輝き、私たちを力づけ支える力となるのです。

主が世の光としてお生まれになったことを記念する「顕現節」と、十字架の死と復活に向かい歩まれる主を偲ぶ「四旬節」の間に、毎年「変容主日」の礼拝を致します。この日には、主イエスが御自身の本当の姿を弟子たちに現された出来事が語られるのです。

「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(マルコ9:2-4)。

人々のもとに姿を現された主イエスは、弟子たちと共に困難の中を生きる人々に出会うために歩まれ、そこで御言葉を語り、御業を現していかれました。主イエスの旅の目的は、神の国の訪れを告げ、人々が神さまに心を向けるよう御言葉を語ることでしたが、その旅には到着点がありました。本日の御言葉の少し前に、次のように語られています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(8:31)。歩みの中で多くの人々が主イエスの御言葉と御業とに驚き、その御後に従っていく中、主イエスは御自身が辿るべき道を弟子たちに教えられました。そして、その御言葉を受け取ることが出来ずにいさめようとするペトロを、主イエスは叱られたのです。

この出来事の6日の後、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登られました。すると、主イエスの姿と、着ておられる服が比べるもののないほど真っ白に輝きだしました。さらに、そこにエリヤとモーセが現れ、主イエスと語り合っていたというのです。

モーセは旧約の出エジプト記に登場する預言者であり、律法と呼ばれる多くの掟を民に告げ知らせました。彼は、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を主の御業によって救い出し、約束の地カナンへと導いた人物であり、十戒の石板を神さま御自身から手渡されたことでも有名です。

エリヤもまた、旧約を代表する預言者の一人です。彼だけが“命ある内に天に上げられた”と記されており、「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ3:23)と語られている人物です。

旧約の時代から人々の模範として、また、いずれ来る終末を知らせる存在として覚えられていた二人の預言者が突如として現れ、主イエスと共に語り合っていたのです。

「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」(マルコ9:5,6)。

真っ白に輝く主イエスが、モーセとエリヤと語り合っている様子を見たペトロは、仮小屋を三つ立てましょうと言いました。古くから、主の御前に立つ者たちは、住まいの間にテントや仮小屋を立て、聖所としていました。それは、「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」(出エジ25:8)との主の御言葉に由来します。幼いころから救い主の訪れと、主の御業が現される時を待ち望んでいたペトロだからこそ、この場に留まってほしいと願い、そのように申し出たのでしょう。けれども、主イエスには、これから向かわねばならない場所がありました。そこに留まるのではなく、その身をもって全ての人の罪を背負う苦難の道を歩む覚悟をもっておられたのです。

「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」(マルコ9:7-9)。

ペトロが“仮小屋を立てましょう”と申し出た直後、主イエスとモーセとエリヤを雲が覆い、洗礼を受けられた主イエスに語られたように、今度は弟子たちへと御声が響きました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」(9:7)と。弟子たちが急いで辺りを見回すと、そこには主イエスお一人の姿しか見えなかったというのです。主は、3人へと御自身の旅が果たされるまで、このことを誰にも話さぬように命じられました。

聖書の最後に記されているヨハネの黙示録では、いずれやってくる終末について記されています。皇帝礼拝を強いられ、キリスト信仰が公に知られれば死刑にされていた時代に記されたため、内容は非常に抽象的ですが、そこでは、“終わりの時には、光り輝く主がやって来られる”ということが語られているのです。本日の御言葉で語られる主イエスと、終わりの時に再び来られる主の様子が重なります。すなわち、真っ白に光り輝く様子は束の間ではなく、主イエスの本来の姿であることを知らされるのです。

私たちの本来の姿とは一体どのようなものでしょうか。もし、心が目に見えるものであったとしても、私は人前に自分の心を晒す勇気はありません。正しく生きたい、格好良くありたいと願っても、そのように在り続けられない自らの姿を知っているからです。しかし、主イエスは、その光り輝く姿を捨ててまでも、この世に来られ、十字架を背負い、私たちの罪を引き受けて下さったのです。そして、復活された主は再び輝く姿で私たちを迎えに来ると約束してくださいました。そのように、ありのままの姿を隠そうとする私たちへと、主はその圧倒的な愛によって、御自身の輝く衣を着せて下さるのです。そして、日々必要な御言葉を私たちに語りかけてくださいます。

「これはわたしの愛する子。これに聞け」(9:7)。

主イエスは光り輝く姿を弟子たちへと示された後、受難への道を歩んで行かれます。揺るぎない覚悟によって私たちを輝く衣と、力強い御言葉で包んでくださる主に信頼していきたい。この世界へと遣わされる中で、いただいた輝きと御言葉を、出会う方と共に分かち合っていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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