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出会う

マルコによる福音書1章14-20節

◆ガリラヤで伝道を始める 1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 ◆四人の漁師を弟子にする 1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。 1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、主イエスが洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられた出来事を、御言葉より語られました。主イエスが水から上がられた時、天が裂けて“霊”が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたというのです。神さまと主イエスとの間には、聖霊と御言葉という確かなつながりがあることを知らされます。主イエスは、洗礼者ヨハネに導かれ、ヨルダン川の水に浸かるだけではなく、天から降られた聖霊によって満たされました。真の洗礼とは、目に見える水だけではなく、そのように聖霊に全身が包み込まれる出来事であることを覚えたいのです。

教会に連なる私たち一人ひとりは、聖霊に満たされる洗礼を受けた者です。主イエスの洗礼の出来事以来、天は私たちのために開かれており、また聖霊が今後いかなる時も私たちから離れ去られることはありません。洗礼とは、神さまと私たちとの間の“きずな”です。洗礼が、そして、天の扉がこの世に生きるすべての者に対して開かれていることを覚えつつ、聖霊と御言葉に生かされつつ、その福音を宣べ伝えていきたのです。

さて、洗礼の際、主イエスは人々の前に初めて姿を現されました。おおよそ30歳で公の場に登場し、3年間の伝道旅行ののち十字架にかかられたと、聖書の記事から推測されます。

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(マルコ1:14,15)。

伝道というのは、「悔い改めて福音を信じなさい」と伝えることであり、“自分中心の生き方や考えを改めて、「神さまが共におられる」という福音(良い知らせ)をあらわすような生き方をしよう”と確かめ合い、呼びかけることです。

主イエスは伝道にあたって12人の直弟子を持たれました。本日の御言葉は、その中でも最初の弟子たちが主イエスから呼びかけられた場面です。シモンとアンデレという兄弟、そして、ゼベダイの子であるヤコブとヨハネという兄弟の4人が、ここで主イエスによって呼びかけられています。いずれも漁師として生計を立てつつ、湖のあるガリラヤの地で生活する者たちでした。

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(1:16-20)。

シモンとアンデレは、湖に足を浸しながら網を投げていたのでしょうか。ヤコブとヨハネのように舟について触れられていないことからも、漁師も様々な立場に置かれていた様子が窺えます。

主イエスは、シモンとアンデレへと、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(1:17)と声をかけられました。また、少し進んだ先で、舟の中で網の手入れをするヤコブとヨハネを見つけ、ここでもシモンとアンデレと同様に、二人を呼ばれました。すると、彼らは親を雇い人と共に舟に残し、すぐに主イエスに従ったというのです。

主イエスが一人でガリラヤ湖のほとりを歩かれていたことからも分かるように、当初の主イエスは、まだ無名の旅人でした。素性の知れない人物に声をかけられたにもかかわらず、直ちに仕事を捨て、親を残して弟子となっていった4人の漁師たちの心には何が起こったのでしょうか。

今一度、本日の御言葉を思い起こしたいのです。

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(マルコ1:14,15)。

当時のユダヤの地域は、ローマ帝国の属国として監督されながらも、王を立てての自治権は認められていました。ガリラヤ湖周辺地域では、外国人や外国の文化が押し寄せ、ユダヤ人は肩身の狭い思いで生活していたようです。その上、自分たちの王にも頼ることはできませんでした。この時の王の名は、「ヘロデ・アンティパス」。主イエスがお生まれになった頃に統治していたヘロデ大王の息子にあたる人物です。時の王ヘロデは、母親が異なる兄の妻ヘロディアを自らの妻として迎えていました。洗礼者ヨハネは、それが姦淫の罪にあたると指摘していたのです。民の期待が寄せられていたヨハネの命を奪うことが、王自らの評判を悪くすることは分かっていながらも、妻ヘロディアの不満を代弁させられた娘の願いを聞き、ヘロデはヨハネを処刑したのです。

外国からの圧力の中で、王に守られることもなく、信頼すべき指導者を失うことは、困難の中を生きていたガリラヤに住むユダヤ人たちの心に、暗い影を落としていたことでしょう。そのような人々の中へと、主イエスは来られたのです。

ガリラヤ湖のほとりを歩く一人の旅人は言います。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)と。主イエスの御言葉は、苦難の中で踏ん張る4人の漁師たちに大きな衝撃を与えました。

普通ならば誰も、「わたしについて来なさい」(1:17)との言葉を聞いただけで、全てを捨てて従うことはありません。“神さまと共に生きたい!”と願う自分自身との出会いが、行動を起こさせるのです。主イエスと弟子たちは、「いい出会いだった」という思い出に留められるものではなく、その出会いによって共に歩き始めています。主イエスは、「神さまが共におられる」生活を告げて行かれますが、弟子たちは主の語られていることを自分の目で確かめようと決断した者たちでもありました。

私たちは、何故、教会に連なる者となったのでしょうか。聖書に記される主イエスの生涯を辿り、単に御言葉に心を打たれたからでしょうか。信仰者の姿に感動したり、招かれたからでしょうか。否、それら一つひとつのきっかけを通して、私たち自身が自分の目で確かめようと神さまのなさろうとされる出来事に魅かれ、引き寄せられ、決断したからにほかなりません。私たちは主イエスとの出会いによって突き動かされ、弟子とされた者たちです。そして主は、弟子である者の命を引き受け、共に歩んでくださるのです。

また、決断は、私たち自身が生み出すだけのものでもないでしょう。私たちが生かされるために、神さまからいただいた多くの恵み、賜物の中から、最も良いものを選び、取り出し、差し出し、分かち合うことも決断でありましょう。

伝道は、「悔い改めて福音を信じなさい」と伝えることであり、“自分中心の生き方を改めて、「神さまが共におられる」という福音が「私たちの間」にあらわれる生き方をしよう”と呼びかけることです。主の御心と人の想いが重なることによって信仰の歩みが始まるのであれば、私たちは主に倣い、伝道のために世に出ていきたい。この目で主の御業が果たされる“時”を目撃し、証言していきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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