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天が裂ける

マルコによる福音書1章9-11節

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、私たちは顕現主日の礼拝において、主イエスがこの世の光としてお生まれになったことを、御言葉から聴きました。“遠い東の国に住む星の学者たちの目前に、ひときわ輝く星が現れ、その星は彼らを御子イエスのもとへと導いた”。「ユダヤ人の王」として待ち望まれていた主イエスは、ユダヤの人々に限らず、「この世に生きる全ての者の救い主」としてお生まれになったのです。

主のお生まれという喜ばしい知らせが真っ先に羊飼いたちに告げられたように、困難の中に生きる人々のために、主イエスはこの世界に来て下さいました。そして、外国の星の学者がその喜ばしい出来事に招かれていることから、国境や民族の壁を越え、主イエスのお生まれが広められることを望む神さまの御心が、そこに示されていました。

主イエスのお生まれとは、暗闇の中を生きなければならない者たちにとって、まさに希望の光そのものでした。その光に照らされた者たちは、自らが神さまにいかに大切にされ、日々を生かされているかを知らされるのです。ひときわ輝く星のように、私たちは御言葉によって導かれ、照らされながら、これからの道を歩んで参ります。自らの思いにこだわることなく、御言葉の輝きを見失わないように、主に心を傾けていきたいのです。

さて、本日の御言葉では、主イエスの洗礼の出来事が語られています。

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(マルコ1:9)。

主イエスが人々のもとに姿を現される少し前に、荒れ野で叫ぶ者がいました。彼の名は洗礼者ヨハネ。「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ」(1:6)、荒れ野で生活をしながら、人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。これから来られる救い主の道を整えるために、“神さまに向き直るように”と、人々に呼びかけたのです。多くの人々が洗礼者ヨハネのもとを訪れ、洗礼を受けましたが、主イエスもまた、人々と共に洗礼を受けられたのです。

「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(1:10,11)。

主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、水から上がられたその時、天が裂け、そこから聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(1:11)という声が響いたというのです。主イエスは洗礼の出来事の直後から、神さまの御言葉を告げる旅に出られますが、神さまは先立って、主イエスへと聖霊と御言葉を注がれました。「聖霊」という主イエスと父なる神さまの「きずな」を表されたのです。私たちの洗礼も、父と子と聖霊の御名によって、水だけではなく、聖霊と、そして神さまの御言葉をいただくことなのです。

聖書には「洗礼」という言葉に「バプテスマ」という別の読み方が添えてあります。ルーテル教会では普通に「せんれい」と読むのですが、バプテスト派の教会では「バプテスマ」と読んでいます。この「バプテスマ」という言葉には、「全身を浸す」という意味があります。洗礼者ヨハネはヨルダン川において、人々を川に沈め、起き上がらせていたのでしょう。水に沈むことでこれまでの自分が死に、水から起き上がることによって神さまと共に新しく歩み始める者とされるのです。このように、水に身を沈める洗礼は全浸礼と言います。ルーテル教会では、頭に水を注ぐだけです。この方法を滴礼と言います。「洗礼」が「全身が浸る」という意味ならば、洗礼ではないのかと言うと、そうではないのです。洗礼と共にいただく聖霊によって、全身が包まれるしるしなのです。

洗礼者ヨハネは次のように語りました。

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(1:7,8)。

洗礼を受けられた主イエスへと天が裂けて聖霊が降り、その全身を満たされたように、私たちの洗礼とは聖霊によって満たされる出来事です。天とは神さまの造られた世界であり、また、神さまの懐とも言えます。天は、裂けるほどに聖霊で満ちているのです。神さまが、その御心が張り裂けるほどの想いをもって、私たちのもとへと駆け寄ってきてくださることが表されているのです。

そのように、洗礼を受ける者に対して、主イエスの洗礼以来、開かれている天から聖霊が注がれる。聖霊に全身が浸ることこそ、私たちに与えられている大きな恵みであることを覚えたいのです。

キリスト教会では、主イエスの姿に倣い、現在に至るまで洗礼を宣べ伝えてきました。その意味で、洗礼とは、私たちと神さまの「きずな」であるのです。

昨年、私たちは洗礼式を通して新たな兄弟姉妹を迎えました。非常に大きな喜びです。洗礼を受けた者は、主と共に生きる者となり、教会の一員として支え合い、御言葉を伝える器として歩んでまいります。さらに、聖書からの御言葉と、聖餐において主の家族と共に主の食卓を囲み、パンとぶどうジュースを味わいます。主によって与えられる恵みを、共に分かち合う喜びに与るのです。

ただ、洗礼によってクリスチャンとなり、共同体の一員となるわけですから、「洗礼を受けるか、受けないか」という問題で、現在も多くの人が悩んでいることも事実です。長い間教会に足を運ばれていても、「自分は洗礼には相応しくない」と感じている方もおられます。「洗礼を受けるタイミングが分からない」と言う方もおられます。そのように、洗礼が敷居の高いもの、自らが選択しなければならない大きな分岐点と考えておられるのではないでしょうか。

私たちのルーテル教会では、生まれたばかりの子どもにも洗礼を授けます。赤ちゃんに洗礼を受けるかどうかの意思を聴くことはできませんから、親の信仰によって伴われ、授けられます。また、病床に伏し、意思表示をすることができなくなった方、障がいをもっておられ、対話ができない方へと洗礼が授けられることもあります。ご家族の祈りと求めによって、その機会がもたらされます。自分自身の意思を超えて、周りの方々の願いによって洗礼が授けられるのであれば、洗礼とは、もはや“恵み”としか言いようのないものです。

洗礼は、時に当人の意志表示で、また、時に周囲の人々の祈りによって授けられます。ただ、洗礼に至る道は様々であっても、たった一つ変わらないものとは、そこには神さまとの繋がりが証しされるということです。そして、その時、天が裂け、洗礼を受ける者へと御言葉が語られます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(1:11)と。洗礼とは、自らの意思によって受けるだけではなく、主の恵みとして与えられたものとして受け取りたいのです。

私たちが洗礼を受ける前に、主イエスの洗礼を通して、天は開き、聖霊と御言葉とが神さまによってこの世界へと備えられました。先立って、大きな恵みを備えて下さった神さまの深い愛によって、私たちは主に心を向ける者へと変えられるのです。私たちは、いつも主の恵みに立ち返りながら、これからの道を歩んで行きたい。洗礼という恵みを、この世界へと告げていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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