top of page

最も良い物

ヨハネによる福音書2章1-11節

◆カナでの婚礼 2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」 2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、私たちは主イエスのお生まれを喜び祝いました。世界で初めのクリスマスは、寒く暗い馬小屋から始まりました。そして、“救い主がお生まれになった”との喜びの知らせは、苦労の中で神さまの救いを求め、精一杯生きていた羊飼いたちへと、天使によって真っ先に告げられたのです。誰も自ら入ろうとしない馬小屋で、罪人同様に見下されていた羊飼いたちによって祝われつつ、主イエスの歩みは始められました。神さまの御心には、打ちひしがれる小さな一人をも救い出す決意があることを知らされます。先を見通せない暗闇の底からでさえ、神さまの御業という光は輝き出ることのしるしです。

羊飼いたちは、飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんに出会いました。御言葉を語ることも、御業を現すこともできない赤ちゃんイエスさまを見て、彼らは喜びに満たされ、賛美の声を上げつつ帰っていったのです。救い主と言えども、赤ちゃんとして生まれ、成長し、行動を起こすようになるまでには時間がかけられています。それまで生きる苦労をしなければならないことを、羊飼いたちはよく分かっていたはずですが、にもかかわらず、彼らは既に喜びを得たものとして、新たな歩みを始めています。ここに、私たちが学ぶべき、神さまとの関わり方が示されているように思います。

本日の御言葉は、ガリラヤのカナという町で行われた結婚式で、主イエスが“しるし”を示された出来事が記されています。ヨハネ福音書が語る主イエスのご生涯における最初の御業です。

「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』」(ヨハネ2:1-4)。

当時の結婚式は何日にも渡って花婿の家で行われ、参加している人々へと食事やお酒が振る舞われていたようです。カナで行われた結婚式では、途中でぶどう酒が尽きてしまったというのです。祝い事が台無しになっては大変ですから、母マリアは、主イエスへとぶどう酒がなくなってしまったことを告げました。すると、主イエスは他人に語るように、母マリアに「婦人よ」と呼びかけ、「わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2:4)と答えておられるのです。

主イエスの「わたしの時」とは一体いつなのでしょうか。それは、主イエスの歩みによって神さまの御業が実現され、人々が神さまに目を向ける時のこと。十字架で死に、三日目に復活した時にほかなりません。“今はまだ、その大きな栄光が現される時ではない”と、主イエスは教えられたのです。それは、救い主として既に先に待つ苦難の道を見据えつつ、歩み始めた主イエスの覚悟の表れでありました。母に「婦人よ」と呼びかける姿からも、主イエスが親子関係の縁を超えた、救い主としての在り方が示されています。

「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした」(2:5-7)。

主イエスの覚悟を示されたマリアでしたが、このことによって引き下がらず、かえって召し使いたちに主イエスの言う通りに行うように指示しています。マリアもまた、主イエスが自らの息子であるという理由以上に、救い主であることを確信しつつ委ねていたのです。マリアの姿勢に動かされるということがあろうか、主イエスはその場にあった100ℓほど入る6つの水がめを水で満たすようにと、召し使いたちに指示を与えています。ユダヤの人々は、家に帰って来た際や食事の前に身を清める習慣があるのですが、そのときにこの水がめを用い、水を汲んで手足を洗っていたのでしょう。召し使いたちは、主イエスの指示することの意味が分からなくとも、その御言葉に従って行動しています。

「イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました』」(2:8-10)。

主イエスの指示通り、水がめの縁まで水を満たし、宴会の世話役へと汲んで持っていったところ、極上のぶどう酒へと変わっていたのです。話から察すると、一般的に良い酒を先に出し、皆が酔って味が分からなくなった後に、質の落ちた物が出されていたようです。世話役は花婿を呼び、極上のぶどう酒を残していたことを褒めました。しかし、召し使いたちだけは、その極上のぶどう酒がどこから来たものであるかを知っていたのです。

この出来事の結びには、次のように記されています。

「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:11)。

私たちは、カナにおいて主イエスの御業が示されたときの人々の反応に気づかされます。マリアは主イエスの御業が行われる前に信じてすべてを委ね、弟子たちは一連の出来事と、示された極上のぶどう酒というしるしを見て信じた。召し使いは水がめの水を運んだ際、ぶどう酒に変わったことを知らされて驚き、世話役は味見をしていますが、主イエスの御業には気づかぬまま、どこから来たものかを知ろうともしないのです。

後に、唯一復活の主に会えず、他の弟子の言葉を聴いても、“釘跡に指を入れなければ復活を信じない”と言った弟子トマスの元へと主イエスが来られ、次のように言われました。「見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)。ここでは、見て信じるのではなく、見なくとも信じるようにと主は招かれています。

“水を汲みなさい”との御言葉に召し使いたちが従ったその時、奇跡が起こりました。そして、奇跡を見て弟子たちは信じたのです。しかし、大切なことは、見なくとも、見えなくとも、信じることでありましょう。

馬小屋の中で赤ちゃんイエスさまにまみえた羊飼いたちは、救いの出来事がまだ起こされていなくとも、喜びに溢れ、新しく歩み始めました。それは、主イエス御自身に信頼を置き、これから起こされる御業を、まだ見えぬ恵みを確信していたからに違いありません。

私たちは聖書を通して、日々主イエスの御言葉を受け取っています。神さまの御心が語られることで、私たち自身がどれほど大切にされているかを知らされているのです。水がめの水が極上のぶどう酒に変えられたように、主イエスは日々私たちへと最も良い物を備えてくださる方だからです。どれほどの困難が待ち受けていようとも、その先にある主の愛と恵みに希望を置きたいのです。

私たちは2015年を迎えますが、今年、多くの出来事を通して与えられた主の恵みを数えつつ、信頼の内に新しい年を歩み始めたいものです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

bottom of page