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出来る限りの備え

マタイによる福音書25章1-13節

◆「十人のおとめ」のたとえ 25:1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 25:3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 25:4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 25:6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 25:12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 25:13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

「世の終わり」と聞くと、私たちは何を思い浮かべるでしょうか。巨大な隕石の衝突によって、地球が滅亡してしまう。核戦争によって、すべての生物が滅んでしまう。1999年には、ノストラダムスの大予言が噂されました。そのような話を聞くたび、人は、「世の終わり」という言葉に、あまり良い印象を持っていないようにも思われます。

聖書の時代の人々も同様であったようです。やはり彼らも、まだ見ぬ世の終わりということについて、言葉にはならない恐ろしさや不安を感じていたことがうかがえます。本日の御言葉の少し前のマタイ24章に、世の終わりについて、弟子たちが主イエスへと尋ねる場面が、記されています。「どうぞお話しください。あなたがまたおいでになる時や、世の終りは、いつ起るのでしょうか。どんな前兆がありますか」(マタイ24:3)。弟子たちの質問に主イエスは、次のように答えられます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。…中略…だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(24:36,44)。そして、主イエスは弟子たちへと、父なる神さまによってもたらされる終末に対して備えるように、「目を覚ましていなさい」(24:42)と、語られました。

この約束を受け取った当時の人々は、近々、自分たちが生きている間に、イエス・キリストが再び来て下さり、世の終わりである終末の審きと救いの時がもたらされると信じていました。マタイ福音書が書かれたのは、紀元80年頃と言われています。イエスが十字架にかけられ、復活されたのが紀元30年頃ですから、それから50年ほど経った後に書かれたということです。つまり、20歳の時に信じたら70歳。40歳に信じた人は90歳になっていました。主イエスを信じた者たちの中で、迫害や病気、年老いて死んでいく者もいたことでしょう。“イエス・キリストは、私たちのもとに再び来るとおっしゃったのに、再会出来ぬまま彼らは死んでしまった…。”次第に、主イエスの約束に対しての希望は、人々の内から薄れつつあったことでしょう。その中で、「いつ来られるのか」という問いは、「本当に来られるのか」という疑問へと変わり、人々にもどかしい思いを与えることとなりました。

そのような人々へと道を示す御言葉が、先ほど語られたマタイ福音書25章なのです。

御言葉の中で、主イエスは「世の終わり」を、“結婚式”にたとえて語られています。結婚とは、昔も今も皆にとって、特に幸せな時です。ユダヤ人たちにとっても、この日だけは律法から解放されるという規定があったほど、結婚は大切な日、素晴らしい日とされていました。

聖書の語る「世の終わり」とは、結婚式のように、非常に喜ばしい出来事であり、最終的に“罪からの解放と救いが実現する”、“神の国の訪れ”という希望のメッセージなのです。主イエスは、これからもたらされる「世の終わり」について語ることで、この約束が与えられている者として“今をどのように生きるべきかを”を示されたのです。

さて、本日の御言葉で、主イエスは「10人のおとめ」のたとえについて話されました。この「10人のおとめ」とは、花婿を待っている花嫁のそばに付き添って世話をする友人たちのことを指しています。

到着の遅れる花婿を待つ中で、皆眠気がさして眠り込んでしまいました。

真夜中、「花婿だ。迎えに出なさい」(25:6)と叫ぶ声で10人のおとめたちは目覚め、急いでそれぞれのともし火を整えました。花嫁の家で合流してから、花婿の家へと向かう夜道を照らす役目があったからです。けれども、10人の内5人のおとめたちは、ともし火は持っていましたが、余分な油の用意をしていませんでした。花婿の到着が遅れたために、油が足りなくなってしまったのです。そこで、油を用意していたおとめたちに、分けてもらおうとしますが、「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」(25:9)との言葉を返されます。

油を持っていなかったおとめたちは、主人が到着する前に油を買うために店に行きましたが、結局花婿の到着には間に合わず、婚宴の扉は閉ざされてしまったのです。

このたとえ話の背景には、当時のユダヤの村の結婚式の習慣があります。結婚式は夜に行われていました。花嫁は自分の家で、友人たちと花婿を待ちます。そして花婿が、花嫁の家へと迎えに来て、一緒に花婿の家へと向かうのです。

興味深いのは、10人のうち半分の5人が賢いと言われており、残りの半分が愚かであると言われているのですが、“油を用意したおとめたちはしっかり起きていたけれど、半分の愚かと呼ばれるおとめたちは寝てしまった”とは書かれていないということです。10人全員が眠ってしまったのです。叫ぶ声がなければ、全滅であったことでしょう。

みんな寝ていたということは、今日は賢いおとめも、明日は愚かなおとめになりうるのです。今日愚かな者であったとしても、明日目覚めることによって賢い者にもなれると言われているようでもあります。両者の違いは、油を持っているかどうかでした。この油とは、何を指しているのでしょうか。

10人のおとめたちは目覚めた後、花婿を迎えるために、急いでともし火を整えました。しかし、5人の愚かなおとめたちは、花婿が、もっと早く来るものだと思い込んでいた分、予備の油を用意していなかったのです。花嫁のそばに付き添って世話をする者であるのに、主役を差し置いて、自分を中心に物事を考えていました。これに対し、ほかの5人のおとめたちは、花婿が遅れることも想定して、予備の油を用意していました。それほど花婿を思い、結婚を喜んで、迎える備えをしていたのです。

結婚を心から喜び、注ぐ気持ちを伝えることはできますが、その気持ちをケーキのように分けることは出来ません。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」(25:9)と言う賢いおとめたちの言葉には考えさせられます。

神さまに対する思い、“主が迎えに来られる”という約束を喜んで待つ気持ち、そのために備える心というものは各自で携えるべきものである、と知らされも致します。

さらに、このたとえの花婿をキリストご自身として受け止め、改めて考えてみるならば、愚かなおとめたちは、たとえ、ともし火が消えたままの素手であっても「待つ」ことはできなかったのか、と言う展開に思いを馳せます。自分自身の愚かさを認め、何も持たない者として、主の御前に立つ。主を迎える心がともし火として認められはしないだろうかと。

このたとえの花婿とは主イエス、私たちは迎える者であり、同時に主イエスの花嫁とされる者でもあります。主イエスが来られるとの大きな喜びを知らされようとも、その時を待てずに眠ってしまう弱さが人にはあります。自らのはやる思いを優先し、主イエスのなさる「時」を思わず、こちらの都合よりも「遅れる」時への備えをしていないかもしれません。しかし、終わりの日に来てくださるのは、これまで豊かな恵みを与えてくださった主イエスなのですから、何も持たない者として、素手であってもお迎えしたい。自分の期待を押し付けず、依存でもなく、迎えてくださるイエス・キリスト御自身に期待し、ただ、喜んで待ち続ける者でありたいのです。

たとえ、「目を覚ましていなさい」(24:42)と言われていても、私たちは眠らずにはいられません。主イエスに従って生きていきたいと、どれだけ尽くしたとしても足りません。私たちは日常生活の様々な出来事の中で、落ち込んだり、悲しくなったり、立ち上がれないほど打ちひしがれることがあります。苦しくて辛いときは、素直に救いの御言葉を受け取ることができず、はねのけてしまうこともあります。また、喜びや楽しさの中に居るときには、主イエスではなく、幸せな時間ばかりを見つめてしまうこともあります。

しかし今日、私たちは御言葉より、世の終わりは絶望ではなく、婚宴のように喜びに溢れるものだと語られました。そうであるならば、主イエスが大きな愛を携えて、私たちを迎えにやってくるという約束を改めて受け取り、その約束を主が果たしてくださることを信じて待ちたい。欠けが多い私たちを、喜ばしい神の国の宴へと招くために、迎えに来るとおっしゃっているならば、もはや、愚かであろうとも、そのままの姿で立たせていただけることに感謝し、喜びを持って主イエスの再臨を待ちたいのです。

主イエスは、私たちの賢さも愚かさも全て承知の上で、迎えにきてくださいます。一日一日、刻一刻と“主イエスの訪れ”という喜びが増し加えられていることに、心から感謝していきたい。私たちも“主を迎える”という希望のともし火を携えて、歩んで行きたいと願います。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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