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最も重要な掟

マタイによる福音書22章34-40節

◆最も重要な掟 22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 22:38 これが最も重要な第一の掟である。 22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

先週、私たちは召天者記念礼拝を通して、“死を超えても、変わらずに注がれる神さまの恵み”を覚えて感謝を捧げました。死別を通してもたらされた大きな悲しみは、人の力では拭い去ることはできませんが、死の先で、一人ひとりの命を受け止められる主に委ねることで、私たちの悲しみは慰めと希望へと変えられていきます。毎週の礼拝で、生ける私たちと、先に召された方々は向かい合いながら礼拝の時を過ごしています。主によって結ばれ続けていることを私たちこそが知らされているのです。主によって、また、信仰の友によって覚えられ、記念され続ける命が朽ちることはありません。主に伴われる命とは、決して欠けることがなく、消耗もせず、揺らぐことのない恵みそのものです。生きることの内に、主の命に与ることのできる幸いを噛みしめつつ、また、先に召された方々の平安を確信しつつ、毎週の礼拝のひと時を大切にしていきたいと思いを新たにされました。

本日語られる御言葉には、主イエスとファリサイ派の人々との対話が記されています。

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(マタイ22:36)と問うたファリサイ派の人々の胸の内には、“どうにかしてイエスという者をおとしめてやろう”という思いがありました。

福音書に記されているのは、主イエスが人々のもとへ来られ、十字架で死に、復活して天に昇られるまでの概ね3年間の出来事です。その間に、主イエスの御言葉と御業に触れ、非常に多くの人々が従うようになりました。そして、ついには、“救い主が来る”と信じられていた時代にあって、“主イエスこそ、救い主ではないか”と噂されるようになっていったのです。時の王や宗教指導者からすれば、田舎出身の大工のせがれであるイエスという人物が、聖書に記される救い主であると認めることはできません。これまで彼らの築き上げてきた権威を崩し、神さまを冒涜しているかのように見える主イエスに対し、ファリサイ派や律法学者たちは議論によって化けの皮を剥がそうと試みたのです。

さて、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(22:36)との問いかけに、主イエスは2つの答えを返されました。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(22:37-40)。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とは、申命記6章5節に記されている御言葉です。ユダヤの律法には、365の禁止令と248の命令とを合わせて613もの掟があると言われますが、その中でもこの御言葉はユダヤの人々が毎日朝夕の祈りに唱えるほどのものでした。また、「隣人を自分のように愛しなさい」も、レビ記19章18節に記される御言葉です。これもユダヤ人に親しまれていた掟の一つです。主イエスは、ファリサイ派の人々に対して、新しいことを語られたわけではなく、彼らがよく知る御言葉を引用して答えられたのです。

マタイ福音書では、主イエスの御言葉で「最も重要な掟」の対話は終わっていますが、並行箇所であるマルコ福音書12章には、主イエスの御言葉に対する律法学者の応答が記されています。

「律法学者はイエスに言った。

『先生、おっしゃるとおりです。“神は唯一である。ほかに神はない”とおっしゃったのは、本当です。そして、“心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する”ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。』イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった」(マルコ12:32-34)。

主イエスの御言葉が聖書に由来することを知った律法学者は、自らの信仰告白をし、主イエスはその姿勢が“神の国に近い”と語られ、非常に印象的な形で話が閉じられています。

なぜ、主イエスは彼らが親しんでいた御言葉を用いて答えられたのか。それは、主イエスを出し抜こうとした人々が大切にしているであろう御言葉へと立ち返るように、その意味を再確認するように招くためでした。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とは、どういうことでしょうか。心、精神、思いと、似た言葉が連なっていますが、原文から考えますと、この三つは「命、魂、思想」とも訳すことが出来る言葉です。

つまり、口先だけでなく、また、自らのために神さまの御言葉を用いるのでもなく、“全身全霊で、神さまを愛すように”との勧めです。

また、「隣人を自分のように愛しなさい」との御言葉も、同じように大切であると主イエスは言われます。人は空腹になれば食し、喉が乾けば飲み、疲れたら休みます。自らが嫌いだと語る者であっても、当然のように自らの要求を満たすのです。同様に、当然のように人を大切にすること。これこそ、神さまが人へと求めておられることであると言われるのです。

ファリサイ派の人々は、これまで毎日のように口にし、耳にしてきたこの御言葉を、どれほど真摯に受け取っていたのでしょうか。救いに至るために努力する中で、一方では人の罪を指摘し、罪のない自分の姿に安心する。神さまの御言葉を語られつつも不安な日々を送るファリサイ派の人々にとって、最も必要だったのは御言葉の意味を知ることでした。主イエスが、そのように生きる彼らへと気づきをもたらし、安心に至る道を指し示そうと招かれていることを私たちは覚えたいのです。

人は、歩みの中で積み重ねられた経験をもとに、言葉を受け取ってまいります。だからこそ、誤解することや意味を取り違えることも起こります。主イエスは、神さまのもとから来られ、再び帰っていかれました。その道筋を歩まれた主イエスにこそ、御言葉の本当の意味を語っていただくほかないのです。

私たちは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」と語られようとも、時に神さまを忘れ、人を憎み、自らを中心として歩んでしまうことがあります。最も重要な掟すらも忘れてしまう弱さを持っているのです。そして、主イエスは、そのような私たち人間の姿を御存知でした。その上で、本日の御言葉は語られているのです。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ22:37-39)。

私たちは罪に傾く弱さをもっていますが、同時に、私たちには日々、主の招きの御言葉が語られています。人を大切にできない自分と向き合う中で、それでも愛してくださる神さまの御心と出会うのです。

あるいは、私たちを引き受けてくださった主の愛のゆえに、私たちも隣人を引き受けようとするキリスト者としての務めに、繰り返し、気を取り直して立ち向かうのです。

自らの内にも、そして私たちの間にも、“神さまと人とを大切にしなさい”との、主による「招き」が日々語られています。神さまの御心を知らされた者としての道が備えられていることは大きな喜びです。苦悩しながらも、人と共に泣き、共に喜んでいきたい。主によって語られた御言葉の意味に驚きつつ、その御言葉を味わっていきたいのです。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン

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