幸い(召天者記念礼拝)
マタイによる福音書5章1-12節
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。 5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。 5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。 5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。 5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。 5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
人にとって、「幸せ」とは一体何でしょうか。自らや家族が健康であること、金銭的に豊かであること、日常生活がうまくこと。きっと、お一人おひとりが異なった答えをお持ちになっていることと思います。英語で「幸せ」は、「Happy(ハッピィ)」や「Happiness(ハピネス)」と言い表されます。その語源は「Happen(ハプン)」「Happening(ハプニング)」です。つまり「幸せ」とは、突発的、また偶然の出来事によって人にもたらされるものとして考えられていることが分かります。“人生の中で一花咲かそう”との言葉は、そのような人の心を表しているかのようです。幸せを追い求め、努力し、実を結ぶことを願いながら歩み抜く。古くから人の姿勢は変わらず真剣なものであったことでしょう。
本日、私たちに語られた御言葉は、教会では「山上の説教・山上の垂訓」と呼ばれ、多くの方に愛されてきた聖句です。山と言われるものの日本のように木々が茂る森ではなく、ガリラヤ湖を眺められる小高い丘に、あざみやポピーなどが生えている見渡しの良い草原であるとのことです。
ガリラヤという地方に突如として現れたイエスという人物は、長い歴史の中で繰り返し被ってきた外国の支配に苦しむユダヤの人々が、これまで聞いたことのない御言葉、そして見たことがない御業を現して行かれました。「救い主が来る」と言い伝えられていた時代に、“このイエスこそ、救い主として待ち望んでいた人物ではないか”と次第に多くの人々がその御後に従って行ったのです。主イエスは、人々に先立って小高い丘にのぼり、腰を下ろして話し始められました。それが、本日の「山上の説教・山上の垂訓」と呼ばれる御言葉なのです。主イエスが公の場で初めて語られた御言葉でもあります。
「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(マタイ5:1-2)。
腰を下ろすとは、じっくりと、しっかりと向き合う意味でもあります。マイクもスピーカーもない時代に、多くの人々へと声を届かせることはできません。腰を下ろして語られた主イエスの御言葉は、後ろの人へと口伝いに語られていったのでしょう。聴き耳を立てる人々へと、主イエスは話し始められました。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」(5:3)。「心の貧しい者」と日本語で書かれると、“心が狭い者について語っているのか”との誤解が生まれますが、これは、「霊に渇いている」という意味です。つまり、霊で満たされていない者は幸いである、と主イエスは言われたのです。
主イエスの御後に従った人々の中には、病気をもっていたり、人々に排除されたりしていた方など、悩みや苦しみを背負う人々が多くおりました。その場にいた殆どの人に共通していたのは、「このイエスという人なら、今の私を救ってくださるに違いない」という希望だったことがうかがえます。けれども、主イエスが語られたのは、「今、苦しい者は、幸いである」という御言葉でした。
誰も貧しくありたくないし、悲しみたくもない。柔和に生きることができたならば争いは起こらなかったかもしれませんし、正しい道を選び、平和のために生きることができたならば罪に問われることもなかったでしょう。憐れみがあれば支え合える友ができていたかもしれません。人々の困惑した様子が察せられます。「幸い」と言われているのは、そのように自分の力ではどうすることも出来ない状況にある人々なのです。打開したい、滞った人生に流れが欲しいともがきつつ、どうすることも出来なかったという「自らの限界」に突き当った者にとって、残る道は自らを低くして心から救いを求めるほかありません。そのような人々へと、“貧しく、飢え渇く状態にあった人々は、既に「幸い」の只中にあるのだ”と、主イエスは語られたのです。
しかし、主イエスの言われる「幸い」とは、人の用いる「幸い」とはかなり違う意味が込められていました。主イエスの語られる「幸い」とは、ギリシャ語で「マカリオス」という言葉ですが、これは「至福:この上ない幸せ」を指す言葉です。誰よりも苦しい中を生きる人々が、欠けることなく、今後消えることもない、最高の幸せの中にあると言われています。御言葉はすべて、人間を中心とした視点から見ると理解できませんが、神さまを中心する視点から見れば、真に伝えようとされている意味を知らされます。
“神さまの御業とは、苦難の只中にいる者、真に救いを求める者から始められる”と、主イエスは人々に語りかけられたのです。ここに、山上の説教の大きな恵みが表されています。
霊が貧しい者・心が渇く者、悲しむ者、柔和な者、神さまの正しさを求める者、憐れみ深い者、心の清い者、平和を実現する者、神さまの正しさのために迫害される者。それでも、何も手に入らず、苦しみを背負うしかなかった人々の歩みを、その叫びの声を神さまはしっかりと聞き届けてくださっています。ふさわしい恵みを与えてくださいます。だからこそ、“痛みの只中にあったとしても、主に伴われる者は幸いである”と主は語られたのです。“何も成し遂げることが出来なくても、人から排除され、非難されながら生きなくてはならなくても、神さまはひとり一人の存在を喜んでくださっていた”。望んだ幸せとは違うものであったとしても、人々は初めて神さまからの慰めと揺るぎない幸せを感じることとなったのです。
本日は、召天者記念礼拝です。毎年11月の最初の日曜日に、教会では先に召された方々を特に覚えつつ、礼拝を致します。時に、別れの悲しみが押し寄せ、愛しさに震えることもありますが、それ以上に、私たちは愛する方々を抱きとめ、今も揺るぎない幸せの内に守ってくださっている主に、感謝を祈るのです。そして、死を超えて、先に召された方と共に礼拝することへの喜びを噛みしめます。
もし、死が「テレビの電源を切るように」その人の存在を、命を無にしてしまうのであれば、私たちの悲しみは行き場を無くし、私たちの内に留まり続けるでしょう。しかし、私たちは、愛する者の命を委ねることが出来る主がおられると信じて歩むことができます。別れの悲しみを、再び相見える喜びに変える道筋が用意されています。愛した分、同じだけの時間を別れに費やすであろう私たちでありますが、行きつく先は絶望ではなく、神さまの御許であるとの希望なのです。
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(5:12)。
「主が共にいてくださる」という信仰と共に天に召された方々と同様に、私たちにも揺るぎない幸せが主によって備えられている約束を、既にいただいていることを覚えたいのです。そして、愛する者と心を合わせる喜びを受けつつ、祈りのひと時を過ごしたいのです。
望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン